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・パールハーバー60年

 今年は、昭和16年(1941年)12月8日(米時間12月7日)に日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾攻撃で太平洋戦争の火ぶたが切られてから、ちょうど60周年にあたる。

 この節目の12月、旧日本海軍の戦闘機パイロットで構成する「零戦搭乗員会」の主催する、日米友好親善、戦没者慰霊ハワイの旅が行われ、ハワイ作戦参加者2名をふくむ元パイロットら50名が参加した。

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ウイラー(日本ではホイラーと発音するが通じない)基地に残る250kg爆弾のあと。

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 8日間の日程で真珠湾攻撃ゆかりの戦跡をめぐり、日米双方の戦没者を追悼し、また、互いに戦火を交えたアメリカのベテラン(退役軍人)たちとの交流や、双方の体験者があの戦争をふり返るシンポジウム、パネルディスカッションなどが活発に行われた。

 真珠湾と高台の国立太平洋墓地で12月7日(米時間)に行われた記念式典では、9月の同時多発テロの際に活躍したニューヨークの消防士や警官、犠牲者の遺族らも招かれ、計約5000人が参列する大規模な式となった。攻撃が開始された午前7時55分、参列者全員で、平和を願って黙祷が捧げられた。

 式典の前後には、日米の元パイロットが恩讐を超えて肩をたたきあう姿があちこちで見られた。

 長野市在住の元零戦パイロット、原田要さん(85)は、空母「蒼龍」に乗組み、機動部隊の上空直衛として真珠湾作戦に参加。その後1942年6月のミッドウェー海戦では乗艦が撃沈され、九死に一生を得たが、式典会場で、ミッドウェー海戦で直接戦火を交えたアメリカ海軍の元雷撃機パイロット、ロバート・H・オーム氏(86)と奇跡的な再会を果たした。オーム氏は、真珠湾攻撃の当日は地上基地でその惨禍を目の当たりにし、ミッドウェー海戦では、オーム氏の乗った雷撃機は、原田さんらの零戦によって撃墜され、長時間海面を漂流したのちにようやく救助されたという。原田さんも、敵機5機を撃墜後、母艦が沈められたため海上に不時着、4時間にわたり漂流したのち救助される。戦場で直接、命のやりとりをした当事者同士の心情は想像するしかないが、似たような互いの境遇に親しみも増したのか、すっかり意気投合、「会えて本当によかった」「I like you!」と固い握手を交わした。

 原田さんは現在、幼稚園を経営、幼児教育に力を注いでいる。

「この子たちに戦争の悲惨さは二度と味わわせたくない、本当にそう思います。戦争で死んだ仲間たちも、平和を望んで国のためにと死んでいったんです。みんな、本当は死にたくなかったんだからね。新しい日本を担う子供たちが、社会の一員として幸せに活躍できる下地を作る、それが結局は平和につながっていくと自負しているし、戦友たちの遺志を受け継ぐことになるんじゃないかと思っています。それと、相手を倒さなければ自分がやられる戦争の宿命とはいえ、自分が殺した相手のことは一生背負って行かなきゃならない。まったく、戦争なんて、心底もうこりごりですよ」

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飯田房太大尉慰霊碑参拝。中央 岩下会長。

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ヒッカム基地慰霊セレモニーにて。

なお、軍事攻撃である真珠湾攻撃と、罪もない一般市民を標的としたテロははっきりと区別するというのが米側の大方の空気で、日本側の元パイロットに対する、関係者や一般市民の視線は実に温かい。街を歩いても声をかけられたりサインを求められ、シンポジウムや式典終了後には、サインや握手を求める長い列が続いた。サインをもらった米人男性(39歳)は、「戦う以外に選択肢をもたなかった時代の大きなうねりの中、義務を果たした戦士として、敬意をもっている」と語った。

神立尚紀

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ヒッカム基地慰霊セレモニーにて献花する香取頴男(ひでお)氏。

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ミッドウエーで対戦した(?)雷撃機パイロットとの再会を喜ぶ原田要氏。

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