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零戦搭乗員会「海軍戦闘機隊史」より

第二章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘
1 一○式艦上戦闘機(1MF)
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10式艦上戦闘機

 大正十年、三菱は英国ソッピース社のスミス技師の指導を受け、名古屋工場で艦上戦闘機の設計、試作を行った。
 日本で初めて設計されたこの戦闘機は、十月二日、ジョルダン飛行士、桑原虎雄大尉により初飛行した。曲がりなりにも国産戦闘機の開発に成功したことにより、本格的に戦闘機部隊を編成することになった。
 本機の性能は、輸入したスパローホーク戦闘機よりも遙かに優れ、国産第一号機としては満足すべきものではあったが、初めての国産機のため改造個所も多く、制式機として採用されたのは、十二年十一月であった。  本機は295機生産され、約六年間実用機として使われて、わが国揺籃期の戦闘機搭乗員の育成に大きく貢献した。

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2 三式艦上戦闘機(A1N)
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3式艦上戦闘機

 一○艦戦の成功は、たとえ外人技師の指導のもとであったとはいえ、その国産化はわが国高空技術陣に、或る程度の自身を生みつけた。
 海軍は大正十五年四月、三菱、愛知、中島の三社に対し、後継艦上戦闘機の試作を命じた。いわゆる、競争試作の最初である。
 三菱は一○艦戦の指導者、スミス技師監督のもとに、自社設計の鷹型戦闘機を、愛知は独国「ハインケル」社のD23戦闘機の模造を、中島は英国「グロスター・ガンベッド」の模造をそれぞれ試作した。三菱、愛知はいずれも水冷発動機であったのに対し、中島のは星形空冷発動機(ジュピター六型)であった。
 比較試験の結果、中島機が優秀と認められ、昭和四年四月に、三式艦上戦闘機として採用され、四年間近く実用機として使用された。
 本機の性能は当時の飛行機としては、極めて優秀とされた。特に旋回性能は抜群であったため、戦闘機は斯くあるべしという、固定観念を用兵者に植え付け、次期以降の戦闘機の試作に当たって、常に影のようにつきまとった。
 三式戦は昭和五年、プロペラを木製から金属製に換装した。以後発動機は星形空冷、プロペラは金属製というのが海軍戦闘機の常識となった。
 本機はジュピター六型発動機装備の一号と、七型(寿型初代)装備の二号合わせて、一八二機生産された。
 胴体下面に、必要に応じて六○リットル入りの扁平な燃料タンクを装備したとの記述がある。
 昭和七年二月、上海上空で、敵機(コルセア及びボーイング)と交戦した。この空戦で性能優秀と思われていた本機が、速力、上昇力において劣っていることが判った。

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3 九○式艦上戦闘機(A2N)
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90式艦上戦闘機

 三式戦の競争試作に勝った中島は、昭和五年にその性能向上型を試作して、海軍に実験を出願した。この飛行機は胴体が三式戦型、主翼を米国のF2B型、発動機はジュピター六型を搭載したものであったが、性能は三式戦と余り代わり映えのしないものであった。
 中島は更に、輸入したブルドック戦闘機、ボーイングF2B型、F4B型戦闘機を参考にして、機体の重量軽減を計ると共に、主翼をF4B型式とし、さらに発動機を寿二型(公称四六○馬力)に換装した。その結果、この飛行機は性能優秀で、昭和七年四月、制式機として採用された。
 本機は三式戦に比べ、速力で約二○%、上昇力で約二五%勝り、降下加速率もかなり差があるが、翼面荷重は約四○%多い。従って旋回性能は三式戦に比べて良くない。この事が当時用兵側で問題になったが、(第四章、「性能に関する論争」を参照)結局、性能の向上に従い戦闘方式を変えるべきであるという事に落ち着いた。
 中島は海軍に先んじて、米国のスタンダード・ハミルトン社の金属プロペラの製造権を購入し、本機に装備した。初期のものは七・七ミリ機銃を胴体側方に装備したが(一型)、後にこれを胴体前上方に移した(二型)。それまでは上翼に上反角がなかったので、横安定の悪い飛行機であったが、上反角をつけた三型は操縦のし易い飛行機であった。海軍ではこれを九○式二号戦と呼び、以前のものを一号戦と呼んだ。
 また、航続力の不足を補うため、「かまぼこ」型落下式増槽を考案した。落下増槽はその後の戦闘機すべてに装備された。
 本機は、昭和七年から量産を始め、昭和十一年までに二六六機生産されている。昭和九年、本機を複座に改造して、戦闘機搭乗員の教育に使用して好評であったので、訓練用として複座機を造るのが例となった。
 昭和十二年八月、支那事変が始まった直後、空母加賀の九○戦隊は、上海上空で敵機を撃墜し、九○戦でも敵に勝てると、当時の戦闘機搭乗員の士気を高めたものである。

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4 六試艦上複座戦闘機

この頃の最大課題は、艦上戦闘機の洋上行動能力(航続力、航法能力)の不足解決であった。艦上戦闘機は、母艦の視界外では使えなかった。これを解決するために昭和六年、中島に複座艦上戦闘機を発注した。
 本機の発動機は九○戦と同じ寿二型で、七年夏、完成した。速力は九○戦に略同じで、航続力は若干増加したが、上昇力は劣った。なお、小型爆弾による急降下爆撃ができるよう要求されている。本機は採用されなかった。

5 七試艦上戦闘機(A3M)

 本機はわが海軍が、航空自立を目指して連続試作した計画の、第一機目であった。
 海軍は三菱、中島の両社に競争試作を命じた。七試艦戦の計画要求性能は次のようなものであった。
 最高速力 高度三、○○○メートルで一八○ノットから二○○ノット
 上昇力 高度三、○○○メートルまで四分以内  この数値は当時の九○戦の一五八ノット、五分四五秒に比べれば、かなり程度の高いものであった。
 三菱は若干二八歳の堀越二郎技師を、設計主任に命じた。同技師は機体の強度計算と、欧米飛行機工場視察の経歴はあったが、設計関係は助手としての経験もなかった。色々と考慮検討の結果、まだ世界で成功したことのない、低翼単葉型とすることに決心した。
 翼は羽布張りを踏襲し、胴体はジュラルミンのセミ・モノコック構造とした。発動機は三菱の、「A-4」空冷星形、公称、高度三、○○○メートルで、公称馬力七八○馬力のものを採用した。
 試作一号機は昭和八年二月末に完成した。
 一方中島は陸軍の高翼単葉型の、九一戦闘機を、若干改造したものを試作した。両機は審査の結果、要求性能を満足せず、不合格となった。
 しかし三菱の新しい発想は、海軍の注目するところとなり、不採用後も担当者、小林淑人大尉は、数多くの飛行実験を繰り返し、操縦上多くの貴重な資料を会社に提供した。
 一号機は飛行中に垂直尾翼を破壊し、二号機はフラットスピンに陥ったが、強度上及び空気力学的に、多くの資料を得たため、後続機にて再び同様の事故を起こすことはなかった。
 こうして本機は、次の九六戦への足場となり、さらに名機零戦につないで、設計者の努力は結実した。

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6 八試艦上複座戦闘機

 三菱、中島両社が試作を命ぜられ、飛行機は完成したが、海軍の軍備方針が変更され、本機種は実現しなかった。

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7 九五式艦上戦闘機(A4N)
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95式艦上戦闘機

 九○戦が昭和七年に正式採用になると、中島はこれを土台として、その性能向上型に取り組み、昭和九年に完成した。九○戦の発動機を光発動機(公称六七○馬力)に換え、四五%馬力アップを図ったのである。
 しかし燃料消費量の増大に伴い、機体改造の必要が生じ、新設計と同様になった。本機は九○戦を原型としたので、海軍では当初九○戦改とも呼ばれ、海軍最後の羽布張りの複葉戦闘機であった。光発動機の調整に手間取って、採用されたのは昭和十一年一月であった。
 本機の性能は陸海軍を通じて優秀であり、特に格闘戦においては当時随一であった。しかし、発動機の直径が大きく、視界が稍不良となり、着艦時には苦労した。またシリンダーで暖められた空気が、座席内に直接流入するため、搭乗員はその熱気に悩まされた。
 昭和十二年八月、支那事変が始まった時、上海上空において数回にわたり敵機と空中戦を交え、その十数機を撃墜して、海軍戦闘機隊の士気を高めたほか、急降下爆撃、銃撃により、陸上戦闘に協力している。
 本機が採用された十ヶ月後に、九六戦が採用されたため、第一線機としての寿命は短かったが、九六戦も当初は機数が揃わないので、時に応じ第一線で使われ、昭和十三年前半まで主として、陸上戦闘に協力した。
 本機は約二二○機生産され、昭和十五年頃まで搭乗員の教育に使われている。

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8 九六式艦上戦闘機(A5M)
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96式4号艦上戦闘機

 数多い海軍の九試試作機の中で、最大の成功機は、三菱の九試単戦(後の九六式艦上戦闘機)と、九試陸攻(後の九六式陸上攻撃機)であった。これにより、海軍航空自立計画の第一段階は早くも達成されたばかりか、わが国の航空技術が先進国に肩を並べるようになり、操縦性能においては、先進国に一歩先んずるようになった。
 艦上戦闘機は、航空母艦で使用する関係上、発着艦性能と航続力を相当重視されるため、最高速力、上昇力を或程度犠牲にせざるを得ない。本機は七試艦戦の失敗に鑑み、他の条件は幾分緩和して、最高速力と上昇力の発揮を狙った、半ば実験機的な性格を持つ試みであった。従って最初の呼称は「艦上」戦闘機ではなく「単座」戦闘機であった。
 これは、航空技術部長山本五十六少将の指導によるもので、「航空母艦があっての飛行機ではない。飛行機があっての空母であるから、必要があれば空母の発着甲板を長くすればよい」との卓見に基づいたものであった。  九試単戦の要求性能は極めて簡単なものであった。
 最高速力 高度三、○○○メートル付近で二一○ノット以上(「零戦」には一九○ノット以上と記載)
 上昇力 高度五、○○○メートルまで六分三○秒以内
 航続力 燃料搭載量(固定タンク)二○○リットル以
 兵 装 七・七ミリ固定機銃二丁、無線装置は受信機のみ 本機は三菱、中島両者に試作命令が出された。
 三菱は空気抵抗の徹底的減少と、重量の軽減に全力をあげた。
一、 戦闘機としては日本で最初の全金属製とし、胴体の流線化を図った。
一、 片持低翼単葉型としたことは、七試艦戦と同様であるが、主翼は薄くし、二桁箱形構造とした。
一、 機体表面の摩擦抵抗を減らすため、枕頭鋲を使用し、外鈑開口部の蓋の取付は「面一(つらいち)」式とし、さらに全面平滑塗装をした。
一、 動翼と固定翼間の間隙を、両面から弾力のある薄鈑で塞ぎ、抵抗の減少を図った。
一、 車輪は直径三○○ミリの小型にして、カバーをつけた。当時引込脚が使われ始めていたが、小型機では重量が増加して、性能向上のためには効果が少ないと見て、固定脚を採用した。
 発動機は中島の星形空冷の寿五型(公称六○○馬力)を装備した。この頃までは、発動機は自社製のものを使うのが通例であったが、三菱製のものは直径が大きく、胴体の流線化には不適当であったので、中島製のものを使用した。他社製のものを使ったことは大英断であって、このような事はその後もしばしば見られ、飛行機の性能向上に好結果を生んだ。このような構想で設計開始から一○カ月後の昭和十年一月、一号機が完成した。
 本機は努力の結果、自重は七試艦戦より、約一八○キロも少ない一、○四○キロで、全体の形もスマートであった。特に力を入れた翼や胴体の仕上がり表面は、七試艦戦とは雲泥の差があった。
 三菱は本機の抵抗減少対策に絶対の自信を持っていたので、抵抗係数を内輪に見積もっても、○・○二五程度(最大速力二二○ノット)として、航空廠科学部に提出した。しかし科学部は、従来の粗面を持った飛行機の観念から「これは甘過ぎる。二一五ノット位であらう」と判定した。
 ところが、二月のはじめから、各務原飛行場で、社内飛行試験が始められると、最高速力が軽く二四○ノットを記録し、操縦性にも大きな難点のないことが判った。
 一方、中島の九試単戦はボーイングP-26の模倣をした羽布張りの低翼単葉型で、これも二一五ノットを超す優秀機であったが、三菱機とは比較にならなかった。当時世界的優秀機として購入された、仏国の「デボアチンD-510」や英国の「ホーカー・ニムロッド」も問題にはならなかった。
 この好成績に驚喜した海軍は、早速領収して実験したい希望であったが、本機は降下滑空角が極めて浅いうえに、バルーニング(浮き上がり)の癖があるので、狭い横須賀飛行場には着陸困難であった。
 実験担当の小林淑人少佐は、各務原に出張して試験飛行を行った。その結果最高速力二四三ノット(高度三、○○○メートル)、上昇力五、○○○メートル五分五四秒という、世界に例のない好成績を確認した。発動機出力が九五戦より少ないにもかかわらず、速力が五五ノット向上したことは、機体設計がいかに優秀であったかを証明するものである。
 前述の着陸の不便さは、スプリットフラップの採用により、その他の操縦上の僅かな難点は、主翼の逆鴎型を変えることにより、解決できると堀越技師は確信した。また、寿五型発動機は減速歯車に欠陥があるため、旧寿三型(公称七二○馬力)に積み替えられた。
 以上の改造をした二号機は、五月試験飛行され、一号機の欠点は総て改良されたことを確認した。そして多少の改造を行えば、艦載機としても十分使用できると判定されたので、次のような改造をした。
一、 航続力の増大のため、燃料槽の増設
一、 着艦拘束装置の関係上、車輪直径の増大
一、 着艦拘束フックの取付
 二号機で、九五戦、「デボアチンD-510」との空戦比較実験を行った。その結果はD-510は問題にならなかった。九五戦は格闘戦では優位と考えられたが、高速、上昇力を利用する縦の面の運動を交えれば、九五戦を寄せつけなかった。
 二号機に搭載した旧寿三型発動機も、信頼性が薄かったので、光型を積んだが、これも思わしくなく結局寿二型改一(公称四六○馬力)を装備したものが、九六式艦戦としてしょうわ十一年十一月制式機となった。
 この前後、プロペラ要目(ピッチ、断面等)の決定にも苦心している。また、この頃完成した航空廠の垂直風洞では、錐揉みの性状を究明し、悪性錐揉みの防止に役立った。しかし、本機は馬力不足で、最大速力は二二○ノット程度であった。この間空戦運動中、自転を起こす傾向を認めたので、風洞実験の結果、二号艦戦より主翼の仰角を翼端に至るに従い、少しずつ減らす方策をとって解決した。
 本機は三五機生産された後、発動機を寿二型改三A(後に寿三型と呼ばれたが試作二号機のものとは別)に積み替え、二号艦戦と呼ばれ四○機生産されている。そして以前のものを一号艦戦と呼んだ。二号艦戦の性能は、用兵側を満足させた。その後、寿三型改に替え二号艦戦二型と呼び、前者を二号艦戦一型とした。最終的に寿四一型を積んだ四号艦戦が最も多量に生産されている。寿四一型は公称六八○馬力であったが、機体重量の増加その他のため、速力は最初の二四三ノットを上回らなかった。
 なお、二号艦戦二型で閉鎖式風房を試みたが、操縦者が風房に慣れず、かつ後方視界不良であったので、約三○機で取り止めた。三号艦戦はモーターカノン実験のためのもので、二機生産された。落下増槽は最初「かまぼこ」型であったが、その後爆弾型(容量一六○リットル、二号二型以降二一○リットル)に変更された。
 発動機設計陣も、努力研究を重ねていたが、優秀な機体設計に適合する発動機が間に合わぬため、本機の完成を遅らした。このような例は以後の試作機にもしばしば見られることである。
 九六戦は昭和十二年九月、南京空襲を皮切りに、その後中南支の奥地攻撃に参加し、海軍戦闘機隊の歴史に輝かしい記録を残した。太平洋戦争が始まってからも、零戦の生産が間に合わないため、昭和十七年春頃まで、第一線で使用されていた。
 生産機数は三菱が七八二機、東京瓦斯電気、佐世保海軍工廠、九州飛行機等で約二四○機、合計約一、○○○機であった。なお、四号艦戦を複座の練習機に改造したものを、二式練習用戦闘機と呼び、佐世保工廠、九州飛行機で生産された。

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9 零式艦上戦闘機(A6M)

(トップページ・「零戦について」を参照)

10 一三試双発陸上戦闘機(J1N 月光)

 支那事変の拡大に従い、戦域が奥地に伸びて、九六陸攻の行動圏が広がった。それとともに援護の戦闘機をつけられない攻撃隊の被害が激増したので、攻撃隊を援護して長距離進出のできる、双発多座の陸上戦闘機の必要を生じた。
 昭和十四年三月、航本は海軍として初めての、陸上戦闘機の計画書案を、三菱、中島両社に示した。三菱は零戦の試作に手一杯であったため、両社話し合いの結果、中島がこれを試作することになった。
 この飛行機の要求性能は、大体次のとおりであった。
目 的  攻撃隊を援護できる戦闘機であること
型 式  双発 三座
速 力  最高二八○ノット
上昇力  四、○○○メートルまで六分以内 上昇限度一○、○○○メートル以上
航続力  一七五ノット一、三○○カイリ以上 過荷重 二、○○○カイリ以上
兵 装  固定銃 二○ミリ一丁、七・七ミリ二丁 旋回銃 七・七ミリ連装二基四丁(遠隔管制銃架使用)
その他  固定銃を使用するための空戦運動可能
 本機は海軍初の機種であったため、用法的に確然としたものがなく、要求のみ漫然と欲張ったものであった。
 このような飛行機が出現すれば、その航法、通信能力を活用して、単座戦闘機の誘導ができ、また単独で敵戦闘機網を突破して、偵察行動もできると、考えられた。
 真鹿島は、当時仏国の優秀機ポテーツ63型双発戦闘機を参考に試作し、昭和十六年二月一号機を完成した。
 試飛行の成績は、速力、上昇力は要求を満たしたが、本機に要求された航続力と重武装のため、全備重量が初期の九六陸攻に匹敵する、七トンにもなった。
 この重量の飛行機の空力的資料が不足のため、宙返り程度はできたものの、満足する操縦性は得られず、また旋回銃の遠隔管制装置は作動不良で、使い物にならなかった。
 この頃、中国戦線では零戦が活躍して、攻撃隊の援護を十分に果たしていたので、本機の必要性が薄くなってきた。一方中島は採用を見越して量産態勢に入っていたので、当時必要とされていた偵察機として使うこととして、十七年七月に二式陸上偵察機として採用され、同年十一月ラバウル方面に配備された。
 ラバウルの零戦は、昼間は大活躍したが、夜間行動能力が低いため、夜間来襲する敵爆撃機には、何等打つ手がない状況であった。
 二五一空司令小園安名中佐は、この二式陸偵の後席に、二○ミリ二号銃二丁を、前上方三○度に向けて装備し二座として、敵を攻撃する案を立て、空技廠に要求した。
 この方法は敵機の後下方に、同速、同航で追従しつつ射撃するもので、射距離が一○○メートル位なら、ほとんど無修正で命中するものであった。この案に対し、横空、空技廠は賛意を示さなかったが、敵の夜間爆撃に対しては、何等採るべき手段が他になかったので、航本はこれを採択して、空技廠に改造を命じた。
 二五一空は、十八年五月ラバウル再進出の際、改造された二式陸偵二機を伴っていた。そして早速来襲した敵機二機を撃墜して、一躍名声を高めた。その後暫くは、戦果が続き米軍は一時夜間攻撃を中断するに至った。
 ここで二式陸偵は、月光と命名され、夜間戦闘機に変身し、その後夜間戦闘専門の航空隊も誕生した。
 月光はその後前下方向けにも斜銃を装備したものも作られた。
 夜間戦闘機は昭和十九年後半、比島戦線にも配置されたが、当時の残存記録少なく、詳細は不明である。
 本土防空戦では、特に厚木基地の部隊の活躍が目覚ましく、多数のB-29を撃墜したが、敵が次第に高度を上げて来襲するようになると、月光では性能不足、また昼間P-51が援護するようになってからは、邀撃戦闘が困難になった。
 本機は少数の二式陸偵を含め、四八六機生産された。
 昭和十九年斜銃の構想を独国に伝えたところ、同空軍は早速採用して、大いに効果を挙げたといわれている。

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11 雷電(J2M)
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雷電

 海軍は昭和十三年一月、当時南京にあったわが基地が、中国空軍の爆撃機に空襲されてから、防空用戦闘機の必要を認めた。三菱、中島両社に開発を打診したが、中島は一三試双発戦のほか、陸海軍機の試作で余裕がなかったので、三菱一社で試作することになった。
(一) 開発
海軍としては初めての機種であるため、細部の要求決定が手間取り、正式に計画要求書を交付されたのは、十五年四月になった。
 十四試局地戦闘機計画要求書(抜粋
 目 的    敵攻撃機の阻止撃破を主とし、敵援護機との空戦に有利なること。
 性 能  要求順序を最高速力、上昇力、運動性、航続力とす
 最高速力 高度六、○○○メートルで三二五ノット以上三四○ノットを目標とす
 上昇力  高度六、○○○mまで五分三○秒以内 上昇限度一一、○○○メートル以上
 航続力  高度六、○○○メートル最高速力にて○・七時間以上、過荷重(増槽装備)同高度公称馬力の四○%出力にて四・五時間以上
 兵 装    七・七ミリ銃二丁、二○ミリ一号銃二丁、爆弾三○キロ二個
 これらの要求項目のうち、目立つものは、最高速力と上昇力である。最高速力は、 試作中の零戦の二七○ノットを約五○ノット上回り(約二○%に相当)上昇力は六、○○○メートルまで、約二分短縮(約三○%に相当)するという、厳しい要求であった。また、画期的な局地戦闘機(インターセプター)の開発に当たっても、「敵援護機との空戦に有利なること」の条件がつけられている。
 三菱では七試、九試、一二試と続いて海軍戦闘機を手掛けた堀越技師が、四度戦闘機担当となった。同技師はこの機種の性格上、ぜひ大馬力発動機を装備したいと思った。
 当時わが国の大馬力発動機は、三菱一三試へ号(後の火星一三型空冷星型一四気筒、第一速高度二、七○○メートルで一、四○○馬力、第二速六、一○○メートルで一、二六○馬力)と愛知の一三試ホ号(後のアツタ水冷一四気筒、高度五、○○○メートルで一、一○○馬力)の二種類しかなかった。堀越技師は、ホ号の馬力では最高速力を満足せず、また信頼性に乏しいので、直径が大きく空気抵抗の多いのを承知で、ヘ号を採用せざるを得なかった。プロペラはピッチ変更範囲の大きい、V・D・Mプロペラと決めた。
 後に本機が着陸視界不良の問題を起こしたのも、候補発動機がこの二種類しかなかったことが原因である。本機のように機体の設計に適合する発動機が、おいそれと得られなかった例は、欧米各国にもあった。
 堀越技師はこの火星発動機の直径の大きい欠点を補うため、プロペラ軸を延長して、胴体前方を先細り形状として、空気抵抗の減少を図るよう計画したが、単座の戦闘機としては、非常に胴体の太い形となった。また、胴体の流線型を良くするため、風房の後方をそのまま、機尾まで続く形状とした。このために実施部隊に配属されてから、後方見張りに不便であるとの批判が出た。
 胴体の形状は、発動機の直径が大きいことを考慮して、当時の研究の結果、決められたものであるが、終戦後同技師は、当初考えた程利点はなかったと述懐している。
 昭和十五年初めから設計を開始したが、零戦二号機の空中分解対策や、部分的の改造のため、予想外の作業に人手を取られて、木型審査が終わったのは十六年一月であった。
 その後、同技師ほか幹部が過労のため、休養するという事故もあったが、十七年三月には一号機の初飛行ができるまでになった。飛行の結果は操縦性には大した難点なく、特に横の操縦性は良かったが、風房の曲面ガラスの工作不良のため、視界がゆがみ、また脚の引込み装置の作動が不良であった。
 六月に海軍で試飛行をしたが、速力が三一○ノットしか出ないことは、馬力が期待どおり出ていないとして、火星二三型甲(第一速高度一、八○○メートルで一、五七五馬力、第二速四、八○○メートルで一、四一○馬力)に積替えを指示された。一三型の時は発動機故障は少なかったが、二三型は初めて水メタノール噴射を採用したこともあって、発動機に起因する振動、故障が続発した。
 本機の故障の主な原因は次のようなものであったが原因探求に手間取った。
 イ 水メタノール噴射が技術的に未熟
 ロ 延長プロペラ軸のため、重量が増加し振動系が変わった(緩衝ゴムの選定で解決)
 ハ プロペラに起因する振動(減速比を変え、プロペラ翼の剛性を高めることで解決)
 その他、潤滑油温度過昇、ケルメット焼き付け等の故障も相次ぎ、一応解決したの は十九年初めであった。
 視界の点は審査段階でも問題になったが、本機の特性である高速力追求のために は、若干の不便は我慢すべきであるとの結論となった。
 試作の途中で二○ミリ一号銃を二号銃に替え、また海軍初めて防弾鋼鈑を操縦席 の後方に設備した。
 発動機とプロペラの問題もあって、実用までに足踏みした日時が長過ぎた。設計者 が丹精を込めた秀逸機雷電は、出陣までに老いてしまったといえる。
 かくて昭和十九年十月、本機は雷電一一型として採用された。(注 既刊出版物に は、本機の採用は十七年十月とするものが多いが、実際は十九年十月である。又 計画要求の最初から防弾鋼鈑が要求されていたかは疑問である)

(二) 尊い犠牲
 昭和十六年六月十六日、飛行実験部員帆足工大尉が殉職した。同大尉は鈴鹿飛行場を、プロペラの試験のため離陸した。離陸直後高度二○メートルで脚をあげたところ、飛行機は下降姿勢となり、地上に激突炎上した。
 残骸は綿密に調査されたが、原因と思われるものは発見されなかったので、各種の試験は他機により引き続き進められた。
 たまたまこの約三カ月後、三菱の柴山栄作飛行士が、一○号機で離陸直後脚を引き上げた途端、急に操縦桿を前に押され、舵がとれなくなった。咄嗟に脚を下げたtころ、操縦可能となったので、飛行場に着陸した。調査の結果尾脚のオレオ支柱が湾曲し、脚下げと同時に昇降舵の軸管を圧して、下げ舵に作動したことが判明した。これで事故の原因は、設計の不備と、点検の不良によるものであることを突きとめた。

(三) 改造と生産
 本機も零戦に劣らず改造が多かった。使用期間が零戦より短かったことを考えると、その頻度は零戦より多い。
一一型 一五五機(十七年十月より生産)
 視界改善の要望が強いので、風房の形を変え五○ミリ高くした。途中から翼の燃料槽に自動消火装置設備
二一型 二八○機(十八年十月より生産)
 胴体七・七ミリ機銃を廃し、翼を改造して二○ミリ機銃一号銃二、二号銃二、計四丁(ベルト給弾、各銃二○○発)とした。
 胴体燃料槽をゴム被覆防弾装備とした。
 本機が雷電隊の主力であった。
三一型 生産少数(十九年六月より生産)
 視界不良問題が再燃したので、風房の高さをさらに五○ミリ高くし、幅を八○ミリ拡げた。視界が悪いので、若年搭乗員の教育に不都合との理由であった。
 またこの頃、航続力の不足で零戦とともに行動できない、格闘性能が不良である、等の意見が出て、本機の生産中止まで、取沙汰されるに至った。
 これらの事項は、計画の初めから十分検討して造られたもので、今更このような意見が出たのは、局地戦闘機の用法の不徹底を現すとともに、戦局の逼迫が用兵者の焦りを生んだものである。用兵者の要望を最大限実現させるのが、海軍の習慣ではあったが、視界問題以外の改造は不可能とされ、風房のみの改造に止めた。この結果速力が落ちたと、古参搭乗員には不評であった。
三二型 三機(十九年八月)
 米国に倣い排気タービン過給器を装備したが、最高速力三一五ノット程度で効果なく、装備複雑なため中止された。
三三型 四○機以内(十九年五月より生産)
 速力と航空性能向上のため、全開高度を高めた火星二六型(二、八○○メートル・一、五一○馬力、六、八○○メートル・一、四○○馬力、七、二○○メートル・一、三一○馬力)に積み換えた。
 本機は最高速力が高度六、五八五メートルで三三二ノット、上昇力は八、○○○メートルまで九分四五秒という、好成績を示した。発動機の生産が間に合わず、少数機に終わったが、B-29邀撃には好成績を収めた。
 戦争末期に斜銃装備したものもできた。その他、発動機、機銃の仕様変更により次ぎのような型があったが、どれも試作程度で終わっている。

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 総生産機数は、三菱が四七六機、高座工廠と日本建鉄でも若干生産されたが、その数は不明である。

(三) 活躍
 本機は実験飛行中、各種のトラブルが絶えなかったが、昭和十八年十月、雷電部隊ができ、内地で訓練を始めた。三○一空の雷電隊は、十九年六月、米軍のサイパン来攻に際し、硫黄島進出を企図したが、天候不良のため果たせなかった。その後戦況変化のため零戦に替えた。
 三八一空は南西方面進出の予定であったが、事故頻発で機数が揃わず、零戦に替えて進出した。雷電がセレベス方面に数機配備されたのは、十九年夏であった。
 日本本土防空用として、十九年の秋から冬にかけて、三○二空(関東)、三三二空(関西)、三五二空(九州)の各雷電戦闘機航空隊が誕生した。
 B-29の来襲に対し、各隊とも全力を挙げて奮戦した。この時期、高度八、○○○メートル以上で来襲する敵爆撃機に、有効に対抗できる飛行機は雷電しかなかった。
 従来の艦上戦闘機とは、少し毛色の変わった戦闘機であったため、用兵側の戸惑いもあったが、古参搭乗員にはその速力、上昇力、火力の優秀さを認める人も多く、戦争末期のB-29邀撃戦では相当の戦果を挙げている。
 使用期間中視界問題に悩まされ、また整備能力の弱化もあって、不満の多かった飛行機ではあったが、指導方法が良ければ、若年搭乗員でも十分乗りこなすことができたと、回想するベテランパイロットもいる。

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12 紫電(N1K1J)
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紫電

 川西航空機はもともと、飛行艇の製造から発足した会社である。昭和十五年、川西は一五試水上戦闘機(強風)の試作命令を受けたが、その技術で陸上戦闘機も造れると考え、十六年末頃にその熱意を、航本に申し出た。当時雷電が試作中で、まだ初飛行するに至っていないので、航本はこれと競争試作の意味を含めて、仮称一号局戦と呼び試作を命じた。
 川西は菊原静男技師以下非常な意気込みで、強風の改造に取り組み、一年足らずで、昭和十七年十二月に一号機を完成させた。改造の主要な点は、発動機をより強力な一八気筒の誉二一型(一速高度一、七五○メートルで、一八二五馬力、二速六、一○○メートルで一、六二五馬力)に換えたのと、フロートを脚に変えることであった。完成を急ぐ関係上、その他の改造は極小範囲にした。
 会社側は、フロートの抵抗がなくなり、発動機が約三○%出力向上すれば、三五○ノットは出ると予想したが、試験飛行の成績は三一○ノットに止まった。
 本機は原型が水上機の中翼式であったので、脚が長くなり、その儘では収納できないため、伸縮式の構造にした。しかし従来水上機のみで、陸上機製造の経験がない川西技術陣は脚回りの複雑な機構には難渋した。
 誉二一型発動機は、実用機には初めて搭載されたもので、試験飛行を初めてみると、燃料の分配不均一、減速歯車軸受の耐久力不足、油漏洩、点火系統不良その他の重大故障が続き、またV・D・Mプロペラ変節機構の破損等もあって、試験飛行は遅々として進まず、二年近く費やしても、完成の域には達しなかった。この間は発動機の実用試験に終始する観があった。
 しかし川西考案の空戦フラップの自動作動装置による操縦性能、二○ミリ機銃四丁を搭載できる強力な火力(最初の設計は七・七ミリ二丁、二○ミリ二丁)、それにある程度の航続力があることから、零戦の後継機を待望していた航本は、前記の幾多の不具合な個所があるにもかかわらず、十九年十月、制式機に採用、紫電一一型と命名した。川西は採用を見越して、昭和十八年から量産に入っていた。未完成機が飛行場や工場に集積され、海軍の関係者が、改造整備に協力するという事態もあった。
 本機はその後、一一型甲(二○ミリ機銃四丁)、一一型乙(二五○キロ爆弾二個)、一一型丙(爆弾縣吊装置変更)と改造され、合計一、○○○余機生産された。最も多かったのは甲、乙型であった。
 昭和十九年八月、新鋭戦闘機として三四一空に配備され、台湾に進出、次いで秋には比島に移動したが、降着装置や発動機の故障に悩まされ、可動率は低かった。発動機故障のため、未帰還となったと思われる場合も多い。誉発動機は信頼性が薄く、特に高空性能には不満があった。また本機は、空戦中、自転を起こし易い欠点があった。

13 紫電改(N1K2J)
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紫電改

(一) 開発
 川西は紫電の試作中に、その性能向上型を計画していた。その名称は後に紫電改と名付けられたが、実際は試作同様の別設計となった。
 昭和十八年二月、航本は本機の試作を指令した。紫電に比べ改造された主な点は、次の通りであった。
 イ 脚を短くするため、低翼型とした。これにより稍不評であった視界も改善された。
 ロ 主翼は平面型を紫電と同一にするほか、新設計とした。
 ハ 直径の小さい誉発動機に合わせて、胴体を細くして空気抵抗の減少を図った。
 ニ 紫電の離陸時の悪い癖をなおすため、胴体を少し長くし、方向舵の面積を増した。
 ホ 二○ミリ機銃はベルト給弾式になったので、四丁とも主翼内に収容できた。
 へ 生産を容易にし、且つ製造工程を早めるため、部品の数を減らし、紫電の六五%に収めた。
 川西では一カ月の各人残業二○○時間という、昼夜兼行の努力の結果、本機は設 計開始後十一カ月目の、昭和十九年一月一日、鳴尾飛行場で初飛行した。
 最高速力は三二○ノット以上を記録し、ファウラー型の自動空戦フラップも改良され て有効に働き、紫電で考案した腕比変更装置も成功を収めたため、翼面荷重は一七 ○キロになったにもかかわらず、空戦性能は新しい戦闘機として、十分実戦的であることを示した。
 それに加えて、強大な火力、良好な降下加速性能は、米国の飛行機に太刀打ちできると考えられ、大きな期待を持たれた。紫電にはなかった防御装備も、風房正面を厚さ七○ミリの防弾ガラスとし、初期のものには間に合わなかったが、燃料槽をゴム被覆した。しかし操縦席後方の防弾鋼鈑は実験のみに終わった。
 戦局は次第に過酷になり、B-29の本土爆撃、艦載機の来襲が始まった。
 海軍は本機の実験審査を進めながら、制式採用する前に、量産開始を命じた。本機は当時試運転中であった、空母信濃に着艦実験して、艦上戦闘機としても使用可能と認められた。本機の制式機採用は、昭和二十年一月であった。
 本機が部隊に配備されてから、訓練中及び実践において、空中分解を起こし、或いは胴体にしわがよると言う事故が起こった。零戦のフラッターを解明した当事者が集まり、検討したが真因はつかめなかった。当時の工作技術の低下か、急激な空戦運動中(射弾回避の急激な横辷り)強度規定以上の荷重が加わったためと思われた。

(二) 生産
 海軍は本機を、主力戦闘機として配備することとし、二、○○○機生産の計画を立てたが、資材不足と空襲の激化のため、達成したのはその五分の一に過ぎなかった。
 空襲の激化で、工場の生産能力は低下しているにもかかわらず、相変わらず改造命令が出され、その数は七回に及んだが、一、二機の生産又は計画に終わった。生産機数は川西で四○八機、三菱、二一空廠が約二○機である。

(三) 活躍
 本機の制式機採用前の、昭和十九年十二月に、紫電改の部隊(三四三空)が編成された。
 その活躍は第一章に述べた通りで、F6F、F4Uと互角以上に戦って、輝かしい戦果を挙げたが、搭乗員の消耗と、飛行機の補給減少のため、次第に戦果に乏しくなった。しかしわが戦闘機隊に最後の華を飾ったのはこの部隊であった。
 誉発動機は、中島の努力により可成り改善されたが、相変わらず信頼性に欠け、整備力の増強を図ったにもかかわらず、可動率は良好とはいえなかった。
 戦後、米軍は本機を持ち帰り、一○○オクタン以上の燃料で実験して、その優秀な性能を認めたと伝えられるが、遺憾ながらこれに関する資料は見当たらない。

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航空廠、航空技術廠で戦闘機の完成に、永年直接関与した技術者達を下に記す。
(科学部)松平精
(飛行機部)鈴木順二郎、高山捷一
(発動機部)永野治、松崎敏彦
(兵器部)川北智三、川上陽平
(飛行実験部)大木武国 表

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14 未完成の戦闘機

 海軍は次代戦闘機として、下記各種を計画したが、何れも試作中に終戦となり、或いは途中で試作を中止した。
 機種が多いことは、戦局に対する焦慮もあり、また、局地戦闘機の多いのは、敵大型機の対策に苦慮したことを表している。
 失敗に終わったのは、その多くは発動機の使用の見込み違いと、用兵側の過大な性能要求によるものである。
 一七試 艦上戦闘機 (A7M 烈風)
 一七試 陸上戦闘機 (J3K)
 一七試 局地戦闘機 (J4M 閃電)
 一八試 局地戦闘機 (J5N 天雷)
 一八試 甲戦闘機   (J6K 陣風)
 一八試 局地戦闘機 (J7W 震電)
 一八試 丙戦闘機   (S1A 電光)
 二○試 甲戦闘機
 秋水           (J8M)

(一) 一七試艦上戦闘機(A7M 烈風)
 零戦は昭和十五年に採用になり、昭和十六、七年頃が最活躍期であった。軍用機は一機種の寿命が、大体三年位であったから、昭和十八年頃には、次の艦上戦闘機が出現しなければならなかった。
 海軍は昭和十五年末に、後継機の構想をはじめ、一六試とする予定であったが、装備すべき発動機の見込みがつかず、また意見を聞かれた三菱の計算では、考え得る総ての技術は、零戦で出し尽くされたので、造ってもその性能は零戦と大差ないと思われたため、計画は見送られ一七試として発足した。
 もしも本機が、昭和十八、九年頃に戦線に登場したならば、戦闘の様相の一部は、或いは変わっていたかも知れない。
 本機も三菱に対し試作内示され、担当者も矢張り堀越技師であった。
 昭和十七年四月、海軍案に対する研究会が開かれた。同技師は席上、「わが国の国力、開発力の弱さから考えて、頻繁な機種変更はするべきでないから、相当長期間時代遅れにならない飛行機を造るべきである。そのためには、発動機は現在三菱が試作中のMK9A(離昇二、一○○馬力)を使いたい」と述べた。これに対し、航空本部は「現在地上試験の終わっている中島のNK9H(離昇一、八○○馬力)の方が確実性がある」との意見を表明した。
 その後も同技師は再三にわたり、双方の発動機を搭載した場合の計算書を提出して、三菱の発動機を採用するよう主張したが、航本は地上試験で驚異的性能を示したNK9H(後の誉)をすっかり 信用して、完成期日の確実という点でも、MK9Aに勝るとの回答であった。
 そして十七年七月、次のような要求書が出された。
 一七試艦上戦闘機計画要求書(抜粋)
一、目的 優秀な艦上戦闘機を得るにあり
二、形式 単発単葉型 三、主要寸度(格納時)
  全幅一一メートル
  全長一一メートル
  全高四メートル
四、発動機 昭和十八年三月末迄に審査合格のもの
五、速力 六、○○○メートルで三四五ノット以上
六、上昇力 六、○○○メートルまで六分以内
七、航続力 正規状態、最高速(六、○○○メートル)三○分+二五○ノット
   (四、○○○メートル)で二・五時間
八、離艦滑走距離 過荷重にて合成風速毎秒一二メートルの時八○メートル以下
九、降着速力 六七ノット以下
十、空戦能力 格闘戦闘に重点を置き零戦二二型に劣らざること
十一、急降下制限速度 計器指示四五○ノット以上
十二、射撃兵装 九九式二号二○ミリ機銃二丁、弾数各二○○発
   三式一三ミリ機銃二丁、弾数各四○○発
十三、艤装品 零戦に装備の全艤装のほか、試製偏流測定装置
十四、その他
   (イ)性能重要順序は空戦、航続力、着艦、速力、上昇力、離艦の順
    (ロ)翼面荷重一五○キロ/平方メートル、空戦フラップ使用時の相当
     翼面荷重は一二○キロ/平方メートル程度を目標とし、極力格闘性能の向上を計る
 以上の中で注目すべきは十項と十四項である。当時は米軍がガダルカナル島に上陸する前で、零戦の格闘戦法が絶対優勢を誇っていたので、空戦性能を零戦並みとしたのであろうが、試作発令の一年後には、格闘戦のみでは米軍に対抗できなくなっている。すなわち、過去の実績のみにとらわれて、将来機に対する展望を欠いたものであった。また翼面荷重にまで立ち入って、数値を指示したことは、設計者の領分を侵す大きな誤りである。
 研究会の席上、横空は速力発揮のため、翼面荷重一五○を了承したが、空技廠は空戦性能を重視して、一三○と言う厳しい数値を主張した。(前述した紫電改は十九年一月完成、翼面荷重は一七○キロもあったが、空戦性能は優秀であった)
 この要求書には、発動機の具体的指定はなかったので、三菱側は自分たちの主張が通る希望を持っていたが、十七年九月、本機に誉を装備する旨の通知を受けた。
 馬力不足の発動機を装備して、優秀な戦闘機を造るためには、重量を減らして、飛行機を小型にするほかないので、上申して偏流測定器の削除と、携行弾数の緩和が認められたが、翼面荷重は変更されなかった。
 本機の燃料槽は、翼は自動消火、胴体はゴム被覆とし、風房に防弾ガラスの装備をしたが、当時設計を担当した三菱の曾根嘉年技師によれば、防弾鋼板は計画されなかったとの事である。設計陣は零戦の改造、雷電の試作に人をとられ、そのうえ、軍需省の誕生で、生産面が強調され、試作機の部品製造は遅れ、一号機が完成したのは一年九カ月後の、昭和十九年四月末であった。
 試験飛行の結果は、操縦性は大変良好であったが、速力と上昇力が要求をはるかに下回った。堀越技師が最初から心配していた発動機出力の不足と思われたので、改めて発動機の地上試験をした結果、高度六、○○○メートルの推算馬力は、一、三○○馬力しか出ていないことが判明した。この数値は航本が認めた性能を二○%下回るものであった。当時は燃料の質が低下していたため、どの飛行機も性能は低下していたが、誉発動機を積んだ飛行機(例、紫電)は特に甚だしかった。
 堀越技師は再び発動機変更を上申したが、航本は耳を傾けず、性能不足は機体の工作不良であるとして、細部の手直しを命じて試験飛行したが効果は現れなかった。七月頃には本機の試験飛行は中止と言う空気が圧倒的であったが、空技廠長和田操中将の斡旋で、当時試作中の烈風改の設計資料を得るためとの名目で、三菱のMK9Aを装備して、試験飛行することになった。それにもかかわらず、八月四日、試作機については局外者の軍需省は、三菱に対し烈風の生産中止を指令した。
 一方中島は、評判の悪い誉発動機を調査したところ、量産発動機の給気系通路の型が、原型と異なっていることを発見、修正して出力が回復したことを認めた。
 発動機換装の試作機は、十月完成した。
 試験飛行の結果、前回落第した最高速、上昇力は共に優秀で、五、○○○メートルで三三七ノット、六、○○○メートルまで約六分と言う、要求に近い値を出した。また三舵の小改修の結果、空戦性能は極めて向上した。この成績に注目した空技廠は、横空と連名で航本に対し、完成を促すとともに、会社側と一緒に試験飛行を開始した。  十九年十二月、東海地方に大地震があり、この方面に主力工場のあった三菱も大打撃を受けた。そのうえ米軍の空襲が激しくなり、工場は破壊され作業は遅れるばかりであった。それでも官民協力の結果、海軍は試作二号機を二十年二月に領収した。しかし二年前海軍が誉発動機一種に重点集中の方針を採ったため、MK9Aの生産は軌道に乗らず、結局終戦までに海軍が領収できたのは、試作機八機の中、二号機、三号機の二機だけであった。
 本機の領収の時、空技廠担当者の小福田租少佐は「世界無敵の戦闘機」と激賞、会社に慰労と激励の言葉を述べたが、量産第一号機も完成直前に終戦となり、米軍機との手合わせは実現しなかった。
 従来は横須賀飛行場で実験飛行をしていたが、米軍の空襲激化のため、青森県三沢飛行場に移動の途中、領収した一気は不時着中破し、他の一気は三沢で米軍の砲撃により被弾した。終戦時、かねて情報により、本機の性能に着目していた米軍は、本機の提供を要請したが、修理不能との理由で引き渡さなかった。
 烈風は装備発動機に対する、航本の指導の誤りのため、最初の論議に四カ月、この遅延のため環境が悪化して試作機完成の遅れ四カ月、NK9H装備の無意味な飛行試験に四カ月、合計約一カ年を空費した。従って三菱の主張を最初から認めていれば、昭和十九年中期には、烈風戦闘機隊が戦闘に参加していたかも知れない。(但しそれまでに、三菱のMK9Aの量産が可能として。)そしてF6Fを圧倒したであろうことは、当時の関係者の述懐するところである。
 烈風も従来の戦闘機と同じく改造の計画があった。
烈風改 烈風の局戦化を企図したもので、排気タービン過給器装備、兵装強化(三○ミリ機銃六丁)、最高速一○、二○○メートルで三四二ノットとの構想で、昭和十九年二月研究会が行われた。盛り沢山な軍の要求を満たすためには、機体の改造は広範囲となり、実現も危ぶまれたが、二十年二月に木型審査を終わり、十月に一号機完成の予定であった。
烈風性能向上型 高々度性能の向上を狙ったものである。三速過給器をつけ、高度八、七○○メートルで三四七ノットという性能であった。二十年六月審議会を開いたが、機体はほとんど改造する必要はなく、二十年十二月完成を予定した。
 ここに注目すべき事実がある。
 零戦が中国戦線に現れたのが、昭和十五年夏であるが、これと全く同じ時期に、米国はF4Fを実用機として、部隊に供給した。その後米国はF4Fの後継機(XF6F)の構想を始めたのが、十五年後半であった、わが国が零戦の後継機の着想を持ったのも同じ頃である。
 米国はこれを軌道に乗せて、昭和十六年六月に試作命令を出し、その第一号機は翌年六月に、量産第一号機は同十月に完成した。構想を持ってから二年目である。そして十八年九月には、F6Fの部隊は戦場に現れた。僅か三年足らずの間に、構想は実現した。
 これに対しわが方は、前述のような事情で、遂に終戦まで制式機を完成させることができなかった。
 日米とも、飛行機開発の手順はほぼ同様で、米国の設計者の考え方も、わが国と大差なかったが、米国は軍の要求が単純に絞られ、わが国のように盛り沢山でなかったことと、必要性能の発動機を比較的容易に使えたことは、米国の設計者に好都合であった。
 ここに軍の飛行機に対する認識と、工業力の差を改めて感じざるを得ない。なお、米国はF6Fの次にF7F、F8Fを開発し、F8F(最大出力二、四○○馬力、高度五、二六○メートルで三九六ノット)は、量産第一号機が十九年十二月海軍に納入された。戦争が長びけばF8Fの部隊が二十年秋には、戦場に現れたかも知れないことを附記したい。

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(二) 一七試陸上戦闘機
 (五)の項に記述

(三) 一七試局地戦闘機(J4M 閃電)
 三○ミリ機銃を装備する、単発推進式の機体で、尾翼は左右主翼から二本の支持架により取り付ける方式をとり、発動機はMK9D(高度八、○○○メートルで一、六五○馬力)を採用した。
 本機の要求性能は、最高速力八、○○○メートルで三八○ノット、上昇力八、○○○メートルまで一五分、実用上昇限度一一、○○○メートル。兵装は三○ミリ機銃一丁、二○ミリ機銃二丁であった。
 本機の特長は前方視界が良く、また機銃の装備位置に制限を受けず、命中精度も良いと思われる。
 本機は三菱が積極的に開発を企画したものであったが、人手不足その他で計画は進まず、昭和十九年十月、機種削減統一の対象となり、試作を中止した。

(四) 一八試局地戦闘機(J5N 天雷)
 B-17の撃墜に手を焼き、更にその後継機として、より強力な爆撃機の出現を予期した海軍は、防空戦闘機の充実の必要を認め、双発単座の局地戦闘機の開発を中島に命じた。
発動機 誉(離昇一、九九○馬力)二基
速 力  高度六、○○○メートル、三六○ノット
上昇力 六、○○○メートルまで六分以内
     上昇限度一一、○○○メートル
兵 装  三○ミリ、二○ミリ各二丁
防 御  強力なること
操縦性 良好なること
 双発型は月光で失敗したこともあって、官民の技術陣はその繰り返しをしないよう注意したが、何分にも用兵側の要求搭載量が過大で、大型の飛行機になってしまった。
 十九年夏初飛行となったが、最高速力は五、六○○メートルで三二二ノット、上昇力六、○○○メートルまで八分、上昇限度九、○○○メートルという成績で満足せず、月光と同じ運命を辿ることになった。
 その主原因は用兵側が過大な要求を突きつけても、技術側が何とか消化するだろうとの気持ちと、誉発動機の出力が額面どおり出ていないことにあった。
 昭和十九年試作整理の対象となり、六機完成の中三機は斜銃装備、丙戦として終戦直前実用試験された。

(五) 一八試甲戦(J6K 陣風)
 烈風は中高度の性能発揮を目指した艦上戦闘機であるが、これと平行して、高々度の性能優秀な陸上戦闘機を得るため、一七試陸上戦闘機の試作を川西に命じた。
 川西は低翼単座式とし、発動機は誉を予定したが、海軍は主として生産事情から三菱MK9B(フルカン接手過給器付、高度六、○○○メートルで一、七六○馬力、高度八、○○○メートルで一、七○○馬力)を装備するよう指示した。ところがこの発動機は、試運転で故障続出し馬力も出ず、燃料消費量も増大したので、設計上余裕のない本機には使えず、他に適当な発動機がないので、試作を中止せざるを得なかった。
 昭和十八年夏、中嶋のNK9A(誉二段二速過給器付)の見通しがついたので、再び川西で、一八試甲戦闘機として試作を始めることになった。しかし例によって用兵側の、膨大な要求のため、NK9Aでは性能を期待することは不可能となり、NK9Aの性能向上型を使わねばならなくなった。NK9Aは見通しがついたとはいえ、確実な実用化の域に達しないうち、更にその向上型の開発は危ぶまれたが、空技廠が完成を保証するので、計画は進められ、陣風と呼ぶことになった。
 要求性能は高度一○、○○○メートルで三七○ノット、上昇力一○、○○○メートルまで一三分、三○ミリ機銃二、一三ミリ機銃二搭載というものであった。
 その後、発動機が完成する見込みなく、十九年試作中止となった。

(六) 一八試局地戦闘機(J1W 震電)
 本機はわが国最初の、前尾翼式(エンテ型)の飛行機であった。海軍の本格的操縦教育を受けた空技廠の鶴野正敬技術大尉は、それまで前尾翼式のモーター・グライダーを試作し、自ら空中実験して十分な成算を持っていた。
 発動機を操縦席後方に装備するので、大口径火砲の搭載が容易であるため、局地戦闘機の一型式として注目を浴びた。本機は九州飛行機に発注され、十九年六月設計が始まった。
 発動機は三菱MK9Aの推進式延長軸付を使用、プロペラは六翼、従来の飛行機の水平尾翼を機首に配し、垂直尾翼は主翼の左右後縁に取り付けた。機首に三○ミリ機銃四丁を装備し、前車輪引込み脚とし、搭乗員が緊急脱出時には、プロペラ翼を飛散させる装置を考えた。
 本機の要求性能は、高度八、七○○メートルで四五○ノット、上昇力八、○○○メートルまで一○分四○秒、上昇限度一二、○○○メートルとされた。
 本機は取りあえず誉四二型発動機を装備して、二十年八月十二日、設計者鶴野大尉が操縦して、第一回の試験飛行を行ったが、間もなく終戦となった。
 近時エンテ型の飛行機が開発されていることを考えると、本機は時代を先取りした画期的のものといえる。
 本機は戦後、米銀が本機を持ち帰り飛行したが、その成績は不明である。

(七) 一八試丙戦闘機(S1A 電光)
 海軍は夜間戦闘機として、月光、彗星等の他の機種を改装、転用していたが、昭和十八年、専用の夜間戦闘機を、愛知航空機に試作を命じた。
 機種制限のため、部品は当時生産中の銀河と極力共通とし、生産性を向上させるとともに、早期完成を期した。誉二四型を装備した双発機であったが、要求の搭載量に相当の無理があり、完成する見込みなく、十九年秋中止となった。

(八) 二○試甲戦闘機
 昭和二十年六月一日、次の性能を示して、三菱に試作を命じた。
 速 力 高度一○、○○○メートルで三五五ノット
 上昇力 一○、○○○メートルまで一五分
       上昇限度一四、○○○メートル
 その他ほぼ烈風と同じ
 発動機は中島のハ-四四-二一型(高度一○、五○○メートルで一、八五○馬力)を指定されたが、本機の要求性能は烈風改より、僅かに上回る程度であるから、発動機の出力が計算どおりなら、実現可能と思われる。
 三菱では最高速三六五ノット(高度上記に同じ)と計算している。

(九) 秋水(J8M)
 昭和十九年五月頃、独国から高々度爆撃機の邀撃を目的とする、ロケット機の情報が入った。わが軍部はこれに着目し、巌谷英一技術中佐が潜水艦で持ち帰った極僅かな資料を基にして、七月下旬ロケット戦闘機の開発を決めた。
 本機は陸海軍共用機として、機体は海軍、推進機は陸軍(実施の際は海軍も参加)試作は三菱が担当した。
 原型はメッサーシュミットMe163B型である。
 推進はガソリンを使用せず、甲液(濃度八○%の過酸化水素)と乙液(水化ヒドラジン)を噴射混合反応させて、発生する高温、高圧ガスの推力を利用するもので、この推進方式はわが国では体験したことのないものであった。当時としては、この両液を作るだけでも、膨大な電力を必要とした。
 機体は無尾翼中翼式で、主翼は大きなテーパーと後退角を持ち、木製であった。胴体は軽合金モノコックで(量産機は木製)主車輪は離陸後切り離し、着陸は橇による構造とした。本機の要目と予想性能は次の通りであった。
 全幅 九・五メートル
 全長 六・○五メートル
 全備重量 三、九○○キロ
 翼面荷重 二一六キロ
 最大速力 四八六ノット/一○、○○○メートル
 上昇力 一○、○○○メートルまで三分五○秒
 兵装 三○ミリ機銃二丁(各銃五○発)
 航続力 全力で一○、○○○メートルまで上昇後、燃料を使い果たすまで、三二○ノットならば三分六秒、全速ならば一分一五秒。
 それ故、本機は敵の来襲予想進路上毎に、数カ所の待機飛行場を作る必要があっ た。
 本機は民間各界の総力を挙げた結果、試作開始後わずか四カ月で一号機完成、 二十年七月七日、横須賀飛行場で、三一二空飛行隊長犬塚豊彦大尉操縦により試 飛行が行われた。飛行機は四五度の角度で急上昇中、推進器が停止した。同大尉 は飛行場に戻ろうと操縦したが、着陸直前飛行場の見張り小屋に接触して殉職した。
 原因は最初の飛行であるため、燃料が三分の一の軽荷重状態であったのと、上昇 中の加速度が案外大きく、燃料が後方に移動して、燃料取り出し口から空気を吸引し て、燃料が止まったものと判断された。
 同型機は未完成で、終戦まで飛行できなかった。
 本機の陸海軍成算予定は膨大なもので、昭和二十年九月まで、一、二○○機、二 十一年三月まで三、六○○機であった。

(十) 桜花一一型
 戦闘機ではないが、戦闘機搭乗員にも関係があるので記載した。一式陸攻の胴体下に、小さな翼を持ち頭部に大型爆弾を装備した一人乗りの機体を吊して、敵を発見したら、陸攻から離脱、舵を操作して、敵水上艦艇に体当たりする構想で生まれた。
 これは太田光男少尉の発案であった。米軍の圧力に堪えられなくなった海軍は、一旦発進したら、絶対に帰ることのできないこの発案を採用し、十九年八月、空技廠で設計を始めた。
 その要目と性能の主なものは次のとおりである。
 イ 全幅・五メートル、全長・六メートル、航続距離・二○カイリ
 ロ 爆弾は一、二○○キロ徹甲弾で、信管の作動は一○○%信頼性があること。
 ハ 照準を容易にするため、或る程度の操縦性と安定性があること。
 敵の阻止戦闘機の攻撃から逃れるため、高速を必要とする関係上、火薬ロケット(地上推力八○○キロ)三個を装備した。
 十月から十一月にかけて、投下試験、性能試験を行い、ロケットを噴かせば三五○ノットの高速がでることを確認した。
 これと併行して、乗員訓練用のK1型も試作された。爆弾の代わりに水バラストタンクを搭載して、着陸までに水を放出して機体を軽くし、一二○ノット程度で着陸できるようにした。十月三十一日、本機の試験飛行も終わり、一一型とともに量産に入った。
 昭和十九年十月、本機を使用する第七二一航空隊が編成され、司令は戦闘機のベテラン岡村基春大佐が任命された。桜花の戦闘については、第一章で述べてあるが、期待された戦果は挙げていない。母機である一式陸攻が鈍重であったのが、一番の原因であった。
 そのため、母機を高性能の銀河とし、自力航行能力を備えた二二型(爆弾は六○○キロ)を計画したが、試作機の飛行実験に失敗して終戦になった。
 その他橘花、藤花、梅花、神龍等の計画があった。

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