
・零戦搭乗員会「海軍戦闘機隊史」より
第二章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘
1 機体
艦上戦闘機に対する用兵側の要求は、速力、上昇力もさることながら、格闘戦能力を極度に重視していた。
格闘戦とは縦、横の旋回運動を使って相手の後方に占位し、相手を撃墜する戦闘法である。
このためには、翼面荷重(飛行機の重量を主翼面積で割った数値)が小さくなければならない。換言すれば主翼面積の大きい方が有利である。一方速力を発揮するには、抵抗を減らすために主翼を小さくする必要があり、従って翼面荷重は大きくなる。また、上昇力のためには、大馬力の発動機も必要で、搭載燃料も増加するから、飛行機の重量が増し、翼面荷重は大きくなる。
このように、格闘戦能力と上昇力、速力の間には、設計上相容れない要素がある。第四章、性能論争の部で述べるように、この問題は、九○戦ができた時から始まった。飛行機の性能向上のためには、大馬力発動機を積むので、翼面荷重は必然的に増加するから、用兵側の要求を満たすために、設計陣は常に悩まされた。 また、飛行機の重量を発動機の出力で割ったものを馬力荷重といった。すなわち、馬力荷重が小さいことは、発動機出力の大きいことで、同型機の比較では一般に速力、上昇力が優秀であることを示すものである。 戦後考えるに、わが国用兵者は格闘性能にこだわる余り、太平洋戦争開始以後も、近代戦闘機として必要な、速力、上昇力の追求は二義的に考えていたきらいがある。 飛行機の高速化、格闘性能の改善については、次のような事項が考案実施された。
(一) 枕頭鋲
機体の空気抵抗を極力減らして、小馬力発動機で高速化を得る目的で試みられ、九試単戦から実施した。即ち、外鈑を止める鋲の頭を、外鈑と面一(ツライチ)として、表面の突起、凹凸を減らした。これはそれまで独国で試験的に行われたのみであった。同じ理由で、諸開口部の蓋も機体表面と面一とした。
(二) 主翼仰角の捩り下げ
空戦運動中、大仰角時の主翼翼端失速を遅らせるため、主翼の仰角を、中央付近より翼端に至るに従い次第に減らした。九六戦で一度四○分であった。これは世界で初めて試みたもので、零戦では二度三○分とした。
(三) 重量の軽減
零戦において、主翼桁に世界で初めて超々ジュラルミンを使用した。細部まで贅肉を削減したため、強度上、急降下時の制限速力を低くおさえねばならず、また、後に米国は機体の強度不足を指摘した。
(四) 昇降舵操縦装置の剛性低下
規格は昇降舵、方向舵、補助翼の三舵とも同一であったが、高速時、低速時とも、舵の手応えを同じにするため、昇降舵操縦装置だけ剛性を低下して、良好な操縦性を得た。これは零戦で試みられたが、米国は捕獲した零戦でこの装置を発見し、その創意に感心し、その後同様の装置を取り付けた。これは堀越技師陣の創案であった。
また同様の発想から、川西の菊原技師陣は、操縦腕比の変更装置(操縦索取付位置変更)を考案し、紫電、紫電改で使用した。この場合は零戦のように、無断階に変わるのではなく、手動二段(高低速)切り換え式で、昇降舵と補助翼操縦装置に使用した。
(五) 自動空戦フラップ
離着陸の時だけに使うファウラーフラップを、空戦中にうける荷重(G)に応じて、水銀柱を媒体として自動的に作動するよう考案したもので、翼面荷重の大きい紫電に装置して、予期以上の効果を挙げた。自動装置は川西の清水三朗技師の着想で、制作容易、軽量、作動確実、まことに世界に誇るものである。終戦後、米国は紫電改を本国に持ち帰り、その作動の巧妙なことに驚いたという。
以上はわが国の卓越した研究を挙げたが、ここに一つ見逃し得ない事項がある。それは防御設備である。
由来日本海軍は、「攻撃は最大の防御なり」との思想から、飛行機の攻撃力の発揮には全力を尽くした反面、防御については全く考慮しなかった。防御装備をすれば重量が増加し、あるいは燃料搭載量が減って、性能が落ちるというのがその理由であった。支那事変で陸攻が中国の奥地攻撃をしたとき、敵戦闘機や防御砲火により、被弾墜落機が続出しても、防弾などを考えることは論外であるとされた。たまに防御装備の必要を発言する人は異端視され、それを積極的に主張し得る雰囲気ではなかった。
戦闘機はその運動性で射弾を回避すべきである、との発想であったが、昭和十七年末頃、ソロモン航空戦で被害が多くなるにつれ、将来の戦闘機にはなるべく防御装備を考慮する必要がある、という、極く控え目な所見が出始めた。
最初は翼燃料槽に自動消火装置を取り付けたが、その後ゴム被覆、またはゴム内張りの燃料槽となった。さらに風房前面を厚さ七○ミリ程度の防弾ガラスとし、操縦席後方に厚さ八ミリ程度の防弾鋼鈑を取り付けた。しかし、この全部が全機に取り付けられたわけではなかった。
一方米国は、欧州戦場の体験から、防御設備は戦闘機の重要な要素であるとの見解を持ち、太平洋戦争の初めから各種の防御装備をしていた。

2 発動機
(一)飛行機の各種姿勢とG(荷重)に対する方策
戦闘機は空中戦等の運動中は、千変万化の姿勢をとり、またうけるGの大きさも、マイナスGよりプラスGまで広範囲である。このどんな状態の時でも、発動機が停止することはあってはならない。以前は背面飛行の時や、急激な運動中に、燃料の過流入や途絶により、発動機が停止することが多かった。
中島の新山春雄技師は、昭和六年頃からこの対策に取り組み、横空戦闘機隊の協力を得て、気化器に重力弁、ゼロG弁、制御弁を考案し、さらに燃料通路を改善して、どんな状態の時でも、所要の燃料が供給できるようにして、この問題を解決した。三菱の金星型にも、気化器だけは中島製を使った。零戦に搭載した栄型は、この点についても世界の水準を上回る発動機であった。しかし、気化器はその機構上、多気筒、大馬力の発動機には不向きとなり、三菱はその後、燃料噴射方式を採用し、火星型以降に使用した。
(二) 二速過給器
飛行機の飛行高度は、戦争の進展とともに、次第に高くなっていった。これは総ての機種が同様であるが、戦闘機はこれらの飛行機に対処するため、高々度性能の向上が一層望まれた。
最初の過給器は昭和七年頃、寿二型に取り付けられ、昭和十六年頃、機械駆動の二速過給器が採用され、栄一二型に取付け、栄二一型と呼ばれ、これを装備した零戦三二型が出現して或る程度、高々度性能が向上した。
排気タービン過給器は、排気エネルギーによって駆動されるので、性能的にも有利であり、相当数完成したが、艤装上の難点が多くて実用化されなかった。
これに反して米国は、昭和十三年に排気タービン過給器付きの一、○○○馬力発動機を完成、B-17Aに装備した。
(三) 酸素噴射
高空で必要の時、シリンダーに酸素を供給して性能を向上させる方法であるが、酸素消費量が多いため、せいぜい数分間の使用しかできなかった。 月光でこの方法を実験し、約十五ノットの速力増加を確認したが、実用機には使われなかった。
(四) メタノール噴射
発動機の馬力が大きくなり、吸入圧力が増加したので、一○○オクタン以上の燃料が必要であった。しかし、それが入手できなくなったため、対策として研究されたのが水メタノール噴射である。原理は、この潜熱を利用して、吸入空気を冷却し、メタノールの耐激爆性を利用して、燃焼の安定を計り、吸入圧力の増加を可能にするものであった。しかし全開高度以上の飛行機の性能は改善されず、また夏期には発動機の性能が低下する等、欠点も多かった。
零戦五三型丙(栄三一型)では十九年末実施したが、性能は予期のように向上せず、取り止めた。雷電の火星二三型甲及び、紫電、紫電改に積んだ誉二一型では最初から実施した。
(五) 単排気管の採用
これは発動機自体とは関係なく、発動機艤装の問題である。従来の集合排気管の代わりに、各シリンダー毎に排気を後方に噴出させ、そのロケット効果と、背圧減少による馬力向上により、速力の増加を計ったもので、計算上約一○ノットの速力向上が期待され、昭和十八年夏頃から零戦、その他に装置された。しかし騒音が大きくなり、また排気ガスの光で夜間飛行がやり難くなった。
(六) ペーパーロック対策
これも艤装上の問題である。 地上で太陽の直射を受け、温度の上昇している燃料が飛行機の急上昇に際し、外気の圧力が下がっても、燃料温度が下がらないため、燃料管内に燃料の蒸気が充満して、燃料の吸引が不能となり、発動機が停止する現象で、零戦の実験飛行中に起こった。それまでは上昇力が大したことがなかったので、この現象は起こらなかった。 最初は低蒸気圧の燃料を使用し、燃料系統の風通しを良くして、燃料の蒸気化を抑えたが、根本解決策として、従来の吸引式燃料ポンプを加圧式に変更し、これを電燃ポンプと呼んだ。