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零戦搭乗員会「海軍戦闘機隊史」より

第二章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘
1 研究機関
(一) 機体
 大正九年、英国より購入した、ソッピース戦闘機そのままのものを、横須賀工廠造兵部で制作に成功した。これが戦闘機の国産第一号である。
 続いて、大正十年、英国のセンピル飛行団の指導講習を受け、英国から買い入れたスパローホーク戦闘機を、訓練に使用した。この二機種の性能は次の通りであった。
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  海軍で最初の、わが国の名称を付けた戦闘機(一○式艦上戦闘機)を造ったのは三菱である。続いて中島が三式戦、九○戦、九五戦と海軍の戦闘機を独占した。
  昭和六、七年頃までは、各国とも戦闘機は複葉型が全盛で、高翼単葉型がボツボツ造られ始めていた。この情勢の中で将来を見通して、敢然と低翼単葉型に取り組んだのが、三菱の堀越二郎技師であった。同技師の設計した七試艦戦は失敗に終わったが、その貴重な体験は後に九六戦、零戦で見事に結実した。
  外国機を模倣して先進国の技術を吸収し、鋭意研究を重ねていたわが技術陣は、独自の設計を試みるようになった。特に空気力学的の研究では、各国より進んだものが少なくなかった。九六戦時代、米国は複葉型のグラマンF3Fであったし、零戦当時はF4F(中翼単葉)で、どちらもわが方が進歩していた。
  中島は後に月光と呼び、夜間戦闘機として使われた双発戦闘機を造り、三菱はわが国始めての局地戦闘機雷電を開発した。太平洋戦争が始まってから、水上機専用の川西が、紫電、紫電改を前線に送った。三菱は零戦の後継機として企画された烈風を試作したが、完成には至らず終戦となった。
  支那事変勃発後、飛行機を開発した以外の会社にも、量産機の制作を命じた。九六戦を九州飛行機に、零戦を中島に造らせたのもその例である。富士重工(中島の後身会社)の調査では、中島の零戦制作機数は六,五七○機で、零戦全制作機数の六三%を生産している(同調査では中島以外の零戦制作機数は三、九三○機)。
  支那事変から太平洋戦争初期に使用された戦闘機は、性能においては、世界各国より優れていたが、艤装的には不完全であった。潤滑油系統、点火系統、降着装置等に故障続出し、改良すべき点が多かった。

(二)  発動機
 輸入した外国機の発動機には、水冷式のものもあったが、国産時代となってから、海軍の戦闘機は一○戦以外全部空冷式であった。
 大正十四年、中島はジュピター発動機の製造権を取得して、寿発動機を製作、その後ライトサイクロン等の技術を九州消化して、光型、護型を開発し、さらに性能の向上した栄型を完成した。
 寿型、光型は九気筒、栄型は十四気筒で、寿型は三式戦、九○戦、九六戦に、光型は九五戦、栄型は零戦にそれぞれ装備された。中島は戦闘機用発動機の開発に主力を注いでいたので、この時代まで、戦闘機の発動機は中島が独占した。
 昭和九年、三菱がホーネット発動機の製造権を買って、製造したのが明星型であった。これを改造して瑞星型、金星型、火星型と性能を向上させ、十四気筒の火星型は雷電に装備された。同じく十四気筒の金星六二型は、戦争末期零戦に搭載されたが、実戦には間に合わなかった。
 昭和十一年頃の常識では、空冷発動機は一、○○○馬力程度が限度とされていたが、栄型、金星型はこれを破る端緒を開いたもので、諸外国の発動機に比し少しも遜色なく、栄型発動機は戦闘機用発動機として、世界に冠たるものであった。
 当時は一台、一台が綿密な管理のもとで、製作できる余裕があったので、製品も性能、信頼性が十分なものが生産された。
 発動機設計の課題は、小さな直径で大きな出力を得ることにあった。一、○○○馬力級の発動機の開発に成功した中島、三菱は、二、○○○馬力級を目指して、十八気筒のNK9H(後の誉型)、MK9Aの開発に着手した。
 昭和十六年、中島は誉の地上運転に成功した。一、八○○馬力級で小型、軽量という点では、当時外国でこれに匹敵するものを聞かず、これが完成すれば、他国の追随を許さぬ飛行機が、出現すると思われた。
 この好成績に気をよくした海軍は、十分な実用実験を終わらぬのに、以降の全機種にこれを搭載搭載することに決めた(この決定は稍早過ぎた感がある。)。誉はさらに十七年には吸入圧力を上げて、二、○○○馬力を出し、海軍は九月、これを採用した。
 誉は当時の外国の同級発動機よりも優秀であった。もともと一○○オクタン燃料を使う設計で、試作発動機は所期の性能が出たが、その後この燃料が使用できなくなり、以後使ったのは九一オクタンであった。また再生潤滑油を使わざるを得なくなり、故障も増え所期の性能が出なくなった。
 この級の発動機になると、祖の構造は精巧緻密を極めたが、当時熟練行員の応召が相次いだので、工作能力も低くなり、量産発動機の品質が低下し、ひいては性能が出ない原因ともなった。
 部隊における日常整備も、整備員の錬度の低下、部品の不足に加えて、環境の悪化のため十分な整備ができなかった。そして燃料、潤滑油の粗悪化も重なって、色々と事故が頻発して実用不適として不評を買った。
  終戦後、米軍は持ち帰ったものを、正規の燃料、潤滑油でテストした結果、その性能を十分に評価したようである。  烈風も最初は誉を装備したが、性能が出ないため、丁度その頃完成した、三菱のMK9A(シリンダー容積が六リットル多い)に装備替えして、好結果を得たが、実戦には間に合わなかった。
 以上のようにわが国は、二、○○○馬力級の発動機でも設計の時点では、各国に劣らなかったが、工作以下実施部隊使用の各段階では、所要の能力を欠き、且つ良質な燃料、潤滑油の使用不可能のため、実用成果を挙げ得なかった。
 また、輸入ができなくなって、希少金属類の不足による、耐熱、耐摩耗材質の低落も故障の原因となった。米国でも、発動機の開発には非常な苦労、努力をしているが、昭和十七年秋に、二、○○○馬力級の発動機を積んだ飛行機を実用化している。

(三) プロペラ
  一○戦は木製であったが、発動機出力の向上、飛行機の高速化に伴い、木製では耐えられなくなり、金属製(ジュラルミン鋳造)プロペラに変わった。三式戦、九○戦、九五戦は二翼式、九六戦は三翼式でどれも固定ピッチプロペラであった。
 固定式の効率を上げるために米国のハミルトン社は可変ピッチプロペラを開発した。
 海軍は昭和九年、この製造権を買い、住友金属工業(株)に製造させた。当初は高、低二段のピッチ切り替えであったが、間もなくガバナーに連動して、油圧で自動的にピッチが変更できる恒速(定回転)プロペラが完成した。これはどんな速力でも、発動機の出力を全幅使用できるので、特に戦闘機には最適であった。
 わが国で初めて、恒速プロペラ(三翼)を装備したのは零戦である。
 しかしハミルトン式はピッチ変更範囲が少なく、高低速の差の大きい飛行機には不向きであるとされた。また大馬力発動機に装備するためには、重量が増し機械的にも無理があるので、住友が十四年から手を着けていた独国の、V・D・Mプロペラに着目し、雷電以後の戦闘機には、これの四翼式を装備した。
 V・D・Mの電気式カバナーは、作動が十分でなく、過回転問題もあったので、雷電はハミルトン式の油圧に替えた。しかし一般にピッチ変更機構に故障が多かった。
 可変ピッチプロペラは飛行機の性能発揮上、極めて重要なものであるが、わが国の研究が陣容、態勢ともに立ち遅れ、独自のものは完成しなかった。

2 機種の統合
 九六戦当時までは、海軍の戦闘機は、専ら空戦性能に重点をおいた艦上戦闘機であった。これが進攻に、防空に、或いは攻撃機の援護にと多目的に使用され、いわゆる万能戦闘機であった。零戦の企画に際して、その性能につき、意見が分かれたが、出来上がってみると従来通りの、万能戦闘機として活躍した。
 このように戦闘機の任務は多岐であった。用途によっては設計上、相反する要素を含むため、一機種では任務遂行上、必要な性能を満足し得ないおそれがあった。支那事変勃発後、横空で研究の結果、陸攻隊援護用の双発戦闘機(後の二式陸偵・月光)と、防空戦闘機(局地戦闘機雷電)とが開発された。
 この両者は海軍として、初の機種であったため、用兵上の検討不足と思想不統一の感があって、前者は最初の試作目的には不合格となり、後者は部隊に配属されてから、種々の苦情が出た。
 その後陸海軍で検討を重ねて、昭和十八年に至り、陸海軍を通じて次のような戦闘機を、開発するべきであると決定された。
 甲戦 敵戦闘機の撃墜を主とするもの
 乙戦 敵爆撃機の撃墜を主とするもの
 丙戦 夜間敵機の撃墜を主とするもの
 昭和十八年六月二十二日、細目が発布されている(抜粋)
 次表のように、特に高々度性能を強調されたが、過給器開発の手遅れのため、飛行機の要求性能に適合する発動機の出現は見込みが薄かった。
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3 開発、生産と工業力
 昭和十二、三年頃までは、用兵と技術の両面から、審議されて、実現可能の線で飛行機の開発が行われた。
 しかし、太平洋戦争が始まり、しかも戦局が厳しくなるにつれ、用兵側の要求は次第に過酷になり、技術側を苦況に陥れた。用兵、技術の両側を勘案して調整すべき飛行実験部も、自らの体験上、用兵側の意向に同調することが多くなった。
 このため技術側は、試作中の発動機に期待をかける以外に途がなく、希望的観測の上に立って、性能を推算する傾向となった。
 合理的で技術を尊重したといわれた海軍も、戦局に対する焦慮から、要求(飛行機の性能、装備)が余りにも過酷となり、技術側はその全部を消化できなかった。
 設計陣の限られた陣容に対して、試作機が多過ぎ、これと併行して戦訓及び実施部隊からの要求で改造事項が殺到した。さらに中央指導部の無定見とも思われる、開発及び生産指導の変更は、いたずらに設計陣を混乱させるばかりであった。
 また、戦争中期より工員の応召、資材の輸入途絶、空襲による工場の被害等不利な条件が加わった。祖の中で技術側が全力を尽くし、夜を日に継いで努力邁進したことは、記録にとどめるべきである。
 昭和七年、海軍は航空自立計画を立てた。まず飛行機を自主開発し、次いで生産を拡大する方針であった。この時の航空技術部長山本五十六少将は、特にアルミ合金の開発増産の必要を力説し、業界を指導した。これは将来を卓見した特筆すべきことである。
 昭和十二年の飛行機生産は八○○機となり、十六年後期には月産二五○機(年間換算三、○○○機)の生産能力となった。
 太平洋戦争に入ってから、製造施設は急増し、昭和十九年は、一三、○○○機を生産した。しかし、大量生産機構の不備と、戦争によるさまざまの障害のため、要求された数量は、はるかに及ばなかった。当年の軍令部の要求は三○、○○○機であったが、陸軍との話し合いで二六、○○○機となった。
 しかもその完成機も品質管理の不良により、実用に耐えないものが続出した。
 海軍は大量生産に対する指導の配慮が行き届かなかった。海軍首脳部が、大艦巨砲主義から脱却せず、航空威力の偉大なことを認識しなかったことに遠因はあるが、航空用兵者も短期決戦の思想に惑わされて、航空戦の本質に対する考慮に欠けていたと、いわざるを得ない。このため技術側も、性能を追求する余り、飛行機は職人芸とも思われる精緻さで造られ、大量生産に対する配慮は極めて少なかった。このため莫大な消耗、補給についての対応は、全く立ち遅れたのである。
 その他大量生産に応じきれなかった原因として、次ぎを挙げたい。
(一) 基礎工業力不足のため、航空機工業のような精密な工作は、限られた工場でしか対処できなかった。
(二) 生産機数が多すぎ、また改造も多かった。
(三) 部品の共通性がなかった。
(四) 輸入途絶のため資材が不足した。
(五) 熟練工員が応召された。
(六) 空襲のため工場が破壊された。
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