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・零戦搭乗員会「海軍戦闘機隊史」より
第一章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘
第五節 制空権なき戦い
1 マリアナ諸島の失陥(「あ」号作戦)
第一航空艦隊(一航艦)の編成 源田實中佐は十七年末軍令部に着任すると、かねて腹案の、急速な移動集中により随時随所に圧倒的優勢を獲得することを目的とした基地機動航空部隊の実現化を図った。
二六一空(十八年六月一日開隊)と七六一空(七月一日開隊)の二コ航空隊で一航艦が編成された。司令長官は角田覚治中将、参謀長は三和義勇大佐、先任参謀は淵田美津雄中佐である。
(注)緒戦時の一航艦はミッドウェー海戦で消滅したが、新しい一航艦は陸上航空部隊であり、二、三、五・・・・・・航艦と続く。
この航空艦隊の構想は、次のようなものであった。
1、兵力としては、戦闘機四コ航空隊、艦爆、陸爆、陸攻、艦偵及び夜戦各一コ航空隊計九コ航空隊で一コ航空戦隊とし、同様な航空戦隊二コを合わせて航空艦隊とする。
2、各航空隊司令は中佐級の航空出身者を、飛行隊長は、技量識見及び訓練指導者として優秀な人材を配する。指導幹部には歴戦有能の士を当てるが、一般搭乗員にはできる限り練習航空隊の教程終了直後の新人を投入する(他の実戦部隊の戦力を弱めないため)。
3、練成期間を一ヵ年と予定し、この間大本営直轄部隊として温存する。
4、基地移動が容易なように装備等を工夫する。
飛行隊長には、戦闘機隊長指宿正信大尉他歴戦の勇者が選ばれて、猛訓練が続けられた。
十九年一月には一三コ航空隊となり、二月一日には一航艦を六一航戦(一〇コ航空隊)と六二航戦(三コ航空隊)とに分離し、六一航戦は一航艦長官直率とした。なお、六一航戦の戦力充実は十九年五月中旬~六月と予想し、六二航戦のそれは九月を目標として進めた。
編成は一応できたが、飛行機定数の増加とも関連し、搭乗員及び機材の充足は、極めて不十分であった。
搭乗員については、要員不足のため充足率だけではなくその素質の低下も免れ得なかった。また機材の面でも比較的早く発足した二~三コ航空隊を除き、充足率はいずれも五〇%に満たなかった。
しかし、連合軍の進攻速度は、一航艦に時を与えてくれなかった。中部太平洋方面が危くなり、二月十五日戦力培養中の一航艦は、最初の計画に反して連合艦隊に編入され、マリアナ方面に進出することになった。
米機動部隊マリアナ来襲 概述のとおり、米海軍は、装いを新たにした機動部隊(第五艦隊)でマーシャル諸島の心臓部クェゼリン環礁に直接進攻した。そして、時を移さず、トラックを不意急襲し航空兵力を壊滅させ、次いでマリアナ諸島をB24の攻撃圏内に収めるブラウン環礁を攻略した。米海軍はマリアナ諸島の主要な島々を攻略し、日本の南方向けの補給路を切断したいと考えていた。米陸軍航空隊は、新型長距離爆撃機B29に日本本土を空襲させる基地用にサイパン、テニアン、グァムをほしがっていた。ニミッツ提督は、山本大将がミッドウェー作戦で狙ったように、マリアナを攻略するとともに、日本の空母部隊を誘出して交戦し、それを撃滅することを待望していたのである(「ニミッツの太平洋海戦史」「提督ニミッツ」参照)。
トラック被空襲が、政府、大本営に与えた衝撃は極めて大きく、陸軍省内にはマリアナ放棄論さえ生ずるようになり、また陸軍側はトラックの防衛強化に消極的となった。これに対し、海軍はマリアナ、トラックの防衛戦における邀撃を主張している。
米機動部隊のトラック来襲により、連合艦隊長官は二月十七日、南東方面で作戦中の十一航艦、二航戦の移動可能兵力全力及び十三航艦の三三一空(十八年十二月カルカッタ攻撃で活躍)、七〇五空を内南洋部隊に編入、一航艦六一航戦のマリアナ諸島進出を令し、内南洋所在の陸上機全部を一航艦長官に指揮させるよう命じた。
二月二十日までにトラックに移動した十一航艦、二航戦の兵力は約六〇機であり、同日マリアナ諸島の航空兵力は、ようやく約一三〇機になった。一航艦の進出兵力は九三機、そのうち零戦は二六三空の一八機が前日テニアンに進出しただけであり、二六一空の零戦六八機は移動中で硫黄島にいた。司令部は二十一日にテニアンに進出している。
二十二日朝、索敵機が米機動部隊を発券したが、通信機不良のため、午後帰投後報告した。
この報告を受けた一航艦角田長官は、直ちに攻撃を決意し、さらに翌日の黎明攻撃を企図した。この時、淵田先任参謀は、戦闘機の進出兵力が不十分であり、また進出直後で攻撃に成算がないので、消耗を避けるため飛行機の避退を進言したが、見敵必戦主義の角田中将は聞き入れなかったという。
この日、一式陸攻を夕刻から翌二十三日未明にわたり小兵力毎(一一機、五機、六機)逐次出撃させ、米機動部隊に対して雷撃させた。第一次攻撃隊は飛行隊長を含め七機が未帰還となった。この日陸攻は一三機還らなかった。
角田中将は、米機動部隊に対する黎明攻撃のために、二十三日早朝、所在の六一航戦全兵力を発進させた。攻撃機が発進してから約一時間後、ミッチャー少将指揮の二群の米機動部隊からの艦上機約二〇〇機が、主としてサイパン、テニアンに来襲した。
黎明攻撃と、米艦上機の空襲によって、わが方は一二三機の損害を出し、残存機はわずかに一二機になった。一航艦は、手元にあった虎の子の兵力を一日足らずでほとんど壊滅されてしまった。攻撃隊は相当の戦果を報告したが、米側資料によれば、米機動部隊は少数機喪失しただけで、日本機の攻撃による艦艇の被害はない。
「米機動部隊は、二十二日夜、日本機の攻撃を受けたが、米艦は対空放火だけで防衛し、その際艦のレーダー射撃指揮装置とVT信管の高角砲が非常に有効であった。また、米側にとって重要なことは、日本軍の飛行場と上陸に適する海岸の航空写真をとったことである」(「ニミッツの太平洋海戦史」要約)
この戦闘は、闘志果敢な角田中将の独り相撲に終わった感がある。航空作戦の本質を把握している淵田先任参謀の進言を顧慮する冷静さと柔軟さが必要であったろう。
米機動部隊パラオ空襲、古賀長官及び連合艦隊司令部行方不明 十九年三月に入り、マーシャル方面の通信状況が閑散となり、艦艇の出現状況やウェワク方面に対する空襲状況から、連合軍のマリアナ及び東カロリン諸島に対する早期来攻の判断が薄らいだ。そして、三月二十日頃には、連合軍の次期進攻についてニューギニア北岸又は一挙に西部カロリン諸島に指向される場合も懸念されるようになった。
この頃、連合艦隊水上部隊のうち第三艦隊の一航戦を含む主力はリンガ方面で訓練中で、一航戦はようやく基地航空戦に使用し得る連度であった。二航戦、三航戦は一部が一航艦のマリアナ方面進出に協力しながら内地で訓練を開始していた。
古賀長官は、邀撃作戦に備え、「武蔵」以下第二艦隊主力を率いパラオに在泊していた。
基地航空部隊は一航艦(六一航戦)がマリアナ諸島に(二六一空、二六三空の零戦約一〇九機を含む一七四機)、二二航戦がカロリン諸島中央部及びメレオンに(二〇二空、三〇一空の零戦一一三機を含む一八九機)、また二六航戦が西カロリン諸島(ペリリューに二〇一空の零戦約二〇機、五〇一空の艦爆一三機を含む六四機)に配備されていた。
十九年三月下旬、スプルーアンス大将の三群から成る第五八高速機動部隊(トラック空襲と同一部隊)は、メジュロを発して、トラックから後退したわが連合艦隊の新根拠地パラオに迫った。
三月二十九日昼、わが索敵機は米機動部隊を発見、夕刻「武蔵」以下連合艦隊遊撃部隊は北西方に避退した。その他の船舶は準備が遅れたため、護衛艦と共に、空襲を受けてほとんど全滅することになる。
パラオに対する米艦上機の第一波は三十日〇五三〇に来襲し、零戦二〇一空二〇機、五〇一空一二機が邀撃したが、第一回の邀撃でほとんど消耗し(二〇一空の零戦は全滅)第二波以後の攻撃に対しては邀撃不可能な状況に陥った。空襲は夕刻までの間一一次にわたり延四五六機に達し、甚大な被害を受けた。西水道及びパラオ港内に磁気機雷を投下された。空母機による機雷投下は初めての試みである。
ペリリューから、陸攻隊が米機動部隊に対し薄暮攻撃を実施したが、成功しなかった。マリアナ方面からの彗星艦爆隊一二機は、索敵中F6Fの奇襲を受け、潰滅的な被害を受けている。
サイパンから一航艦の二六一空三二機(指宿飛行隊長)、二六三空二五機(重松飛行隊長)の零戦が応援のため日没過ぎペリリューに到着したが、そのうち八機は着陸時爆弾孔等により破損している。
三十日夕刻から陸攻隊三隊計一六機、三十一日朝から陸攻隊少数機による米機動部隊攻撃が行われたが、米側資料によれば、戦果はない。
三十一日〇六二〇頃空襲警報発令、二六一空二八機、二六三空一八機の零戦が邀撃に上がった。未帰還、大破、炎上で零戦隊は全滅全滅した。一四四〇頃、米空母機の空襲が終わった。
わが方は三四隻の艦船が沈没又は炎上擱坐した。このうち連合艦隊配属給油艦三隻沈没の影響は大きかった。
本戦闘において、再建途上の二六航戦は約五〇機に及ぶ被害を受け、またマリアナ所在の一航戦も進出兵力の半数に近い約九〇機を失い、残存一一八機(可動九二)となった。特に先のマリアナ被空襲に続いて、当時最も精鋭とされていた搭乗員を多数失ったことは、その後の作戦に甚大な影響をもたらすことになる。
米機動部隊は一隻の損害も出さなかった。これは、日本の航空兵力は衰退を辿っており、米側の対空防御力はますます増強されていることを物語っている。
三十一日比島のダバオに向かった古賀長官機(大破)は、悪天候のため途中行方不明となった。参謀長機はセブ沖に着水大破し、福留参謀長はゲリラに収容され、のちわが軍に救出されている。その時Z作戦計画書の機密文書が米軍の手に渡っていたことを、わが方は知らなかった。連合艦隊司令部が潰滅したことは、たださえ悲境にあったわが戦局をますます暗澹たるものにしてしまった。
五月三日、豊田副武大将が新長官に親補された。それまでの間、南西方面艦隊司令長官高須四郎大将が、連合艦隊の指揮を執っている。
米機動部隊の中部カロリン諸島来襲 四月二十二日連合軍のホランジア来攻時、同方面に米機動部隊を認めた。中部太平洋方面では、この機動部隊の動静を警戒していた。二十九日朝、トラックからの索敵機はトラックの二〇五度四三〇カイリに空母二隻を基幹とする敵部隊を発見した。
四月三十日〇四〇〇、索敵機はトラックの二一〇度一〇〇カイリに米機動部隊を発見、〇四四五零戦十五機(二〇二空)、艦爆四機、艦攻四機から成る第一次攻撃隊が発進した。攻撃隊は二〇分後トラックに向かう敵攻撃隊数十機と行き交い、その五分後F6Fと交戦、雲下の敵空母部隊に対して艦爆、艦攻が攻撃した。帰途再びF6F数機と交戦、〇七三〇トラック上空で再び空戦した。一一機撃墜を報じ、零戦四機を失っている。
トラックでは、〇五一〇から一六〇〇頃まで九次にわたり延六五〇機以上の空襲を受けた。これに対し、二五三空全力(二八機)及び二〇二空の残兵力(六機)で邀撃したが、二五三空は〇六二五までに五機帰着、補給後四機再発進、〇八〇〇帰着したのは一機だけである。
二〇二空は〇八〇〇発進、五機は空戦を行わなかったようであるが、一機はF6F三機撃墜を報じ、〇九〇〇頃帰着した。
夜間雷撃のため艦攻四機発進、うち二機が雷撃を敢行した。一機が未帰還機となっている。
翌五月一日、二〇二空零戦四機で早朝強行偵察したが、敵を発見できなかった。米艦上機はこの日も〇五三〇から〇九三〇頃まで四波約三〇〇機来襲したが、わが被害は軽微であった。一五〇〇、二〇二空零戦三機が強行偵察を実施、また彗星一機は一五〇〇機動部隊二群を発見した。米機動部隊は戦闘機十六機でメレオンを攻撃、また一部兵力でモートロックを空襲している。
五月二日、戦爆連合の艦上機四八機ポナペを空襲した。
三日間の米機動部隊は三五機を喪失したが、艦艇には被害はなかった(米側資料)
マリアナ沖海戦(「あ」号作戦) 十九年三月戦時編制が改訂され、連合艦隊決戦兵力は、空母群から成る第三艦隊を主力とし、この護衛を主任務とする第二艦隊(戦艦五、重巡一〇、軽巡一、駆逐艦一六隻)で構成する第一機動艦隊となった。第一機動艦隊司令長官は、第一航空戦隊を直率し、第三艦隊司令長官兼務することになった。第一機動艦隊司令長官には小澤治三郎中将が任命された。
これで、時機は遅きに失したが、戦艦主兵の従来の海軍用兵思想から脱却して、航空主兵を明確にした、すっきりした形になった。しかし、建軍以来長い間に骨の髄まで染み込んでいた戦艦重視の思想を払拭し得なかったところがあった。
十九年五月のわが海軍中央部の情勢判断は、連合軍の企図は比島攻略が主作戦であり、ニューギニア北岸沿いの作戦及び西カロリンに対して作戦を指向するであろうというのが支配的であった。「マリアナにはいずれ来るであろうが、比島作戦が大体目鼻がついてからと考えていた」(中澤佑軍令部第一部長の回想)。マリアナ来攻を予測したのは、実松譲軍令部第五課部員と中島親考連合艦隊情報参謀であったが、少数意見に過ぎなかったようである。なお、マリアナが攻略された場合には、同基地を使用するB29による本土空襲が日本側にとって最も心配されていた。
圧倒的な航空兵力で進攻速度を増した連合軍は、マリアナ、カロリン、西部ニューギニアを結ぶわが絶対国防圏の一角に鉾先を向けるのは必至と思われた。
ここで、わが海軍は、機動部隊と基地機動航空部隊とで敵来攻部隊と本格的な決戦を行い、敵の進攻企図を破砕して頽勢を一挙に挽回しようとした。陸軍も協力しこの決戦の成果を期待した。しかし、この作戦には、主兵である航空戦力の整備再建、要地の防御強化、航空基地の設営になお時日を要するなど、いくつかの障碍があった。なかでも、最も制約になるのは油の不足であった。
機動艦隊の給油のためタンカー保有量不足から、決戦海面はなるべく機動艦隊待機地点(タウイタウイ泊地)に近い西カロリン地区が希望された。
五月三日、軍令部総長は連合艦隊長官に対し、「連合艦隊の準拠すべき当面の作戦方針」を指示し、さらにこの正面の全基地航空兵力を一航艦に編入した。そして、本作戦は「あ」号作戦と名付けられた。
基地航空部隊は、彼我機動部隊の決戦前、自隊だけで少なくとも敵機動部隊空母兵力の約三分の一を撃破するという方針をたて、兵力を三コ攻撃集団に編成した。
第一攻撃集団 サイパン、テニアン、グァム、トラック方面
第二攻撃集団 パラオ、ヤップ、ダバオ方面
第三攻撃集団 豪北、セレベス方面
六月五日現在の一航艦の兵力は約五三〇機に過ぎず、定数の三分の一にも達していない。一航艦は、既述したように、二月下旬内南洋方面に展開直後、米軍との交戦で、練度の高い搭乗員の多くを消耗した。補充された者は多くが練習航空隊卒業後短期間練成受けただけで、移動においてさえ大きな消耗を出している有様で、中央が期待しているような戦力ではなかった。
「あ」号作戦において、機動部隊はいくつかの特色のある戦法を採用した。航空戦は昼間強襲、敵の側方から攻撃することを主眼とし、敵空母の攻撃圏外から先制攻撃(アウトレンジ戦法)及び特殊攻撃を実施し、以後攻撃を反復するというものである。
このアウトレンジ戦法は小澤長官が強調したもので、四〇〇~四五〇カイリから発艦し、母艦は全速力で敵方に突進し、飛行機隊を収容して、反復攻撃を行うものである。
この方法は新機種(彗星、天山)ならば可能であるとの結論になった(田中正臣第一機動艦隊参謀の回想)。源田軍令部部員、奥宮正武二航戦参謀が反対意見を出したようであるが、大勢はこの戦法を是認し、これより勝利を得られるものと信じていたようである。
特殊攻撃とは爆装した零戦による攻撃である。九九艦爆の性能が時代遅れとなり、十八年末には二航戦で零戦を使い六〇キロ爆弾による爆撃訓練が実施されるようになった。本作戦では二五〇キロ爆弾を使用するように改造された。
機動艦隊は十九年五月中旬リンガからボルネオの北東部タウイタウイ泊地に集結した。各空母とも基地訓練を終了しただけで、着艦も満足にできず、着艦訓練の度毎に事故を起した飛行機は総数六〇機にも及ぶ有様であった。総合訓練はタウイタウイで実施する方針であったが、同方面は無風状態が続き、また米潜水艦の跳梁もあって、礁外における発着艦訓練が十分にできなかった。
アウトレンジ戦法を成功させるための基本要件は、搭乗員の練度である。タウイタウイ泊地における一ヵ月の空白は、この戦法の達成をますます困難にしたといえる。
五月二十七日連合軍はビアク島に上陸を開始した。ビアク島はニューギニア北西部の一小島であり、飛行場適地が多く、戦略上の要衝である。連合艦隊司令部は、従来の計画を変更して、ビアク島の確保を企図し、第三攻撃集団をこの方面に投入するとともに、陸軍兵力を急送する「渾作戦」を命じた。また、第一攻撃集団も五月末ペリリューに展開完了させた。さらに六月三日には、第二攻撃集団にも進出を命じている。結局、マリアナ方面は第一、第二攻撃集団を抽出した残兵力だけとなった。
軍令部と連合艦隊がビアク島に気を取られている間に、スプルーアンス大将総指揮の下に、ミッチャー中将の第五八高速機動部隊は六月六日メジュロを発して、マリアナを目指して進撃している。
六月十一日、米機動部隊はグァム島東方二〇〇カイリの地点から、艦上機をサイパン、グァム、テニアン各島の攻撃に発信させた。わが邀撃戦は少数かつ分散して実施されたため、損害だけが多かった。
六月十二日も〇二四〇グァム島空襲を皮切りに、空母機群はマリアナ各島を襲った。合計延一、四〇〇機に達している。テニアンの彗星六機は五機が帰らず、またテニアンの零戦は一四機邀撃に上がったが、そのうち帰還したのは一機だけである。この日の空襲により、マリアナ所在の航空兵力はほとんど消耗し、わずかに一部の陸攻機が硫黄島を利用し、夜間攻撃を続けただけである。
米軍は、六月十三日からサイパン、テニアンに対し艦砲射撃を開始した。
豊田長官は、十三日夕「あ号作戦決戦用意」を発令し、次いで「渾作戦」を中止した。
十五日米軍サイパン上陸開始の報に接した豊田長官は、「あ号作戦決戦発動」を下令するとともに、臨時に指揮下に編入した横空主力と二七航戦(北海道千島配備兵力)で編成した八幡空襲部隊に対し、硫黄島への進出を命じた。
基地航空部隊は、第二、第三攻撃集団の大部が、ビアク作戦のための転進、来襲敵機との交戦、搭乗員のマラリア、デング熱罹病によって自滅状態となっていた。また、マリアナに在った第一、第二攻撃集団の残兵力も、六月十一日以降連日の米空母機群の空襲により兵力のほとんどを失い、決戦開始の十八日頃には、組織的な攻撃隊を編成することさえ困難になった。
八幡空襲部隊の硫黄島進出も、天候の障碍を受けて所期通り進まず、機動部隊の決戦に策応できず、残るのはただわが機動部隊の勇戦あるのみとなった。
機動部隊は、六月十三日朝タウイタウイ発、十七日夕刻補給を終了し、進撃を開始した。
機動部隊は空母九隻(「大鳳、翔鶴、瑞鶴、隼鷹、飛鷹、竜鳳、千代田、千歳、瑞鳳」)、戦艦五隻(「大和、武蔵」を含む)、重巡一一隻、軽巡二隻、駆逐艦二八隻余(タウイタウイで敵潜による損害で減少)から成っていた。空母機は、零戦二三四(うち二一型八三機は爆装戦闘機〈爆戦と略称〉、他は五二型)、九九艦爆三八、彗星艦爆八一、天山艦攻六八、九七艦攻一八計四三九機である。
これに対して、米第五八機動部隊は正規空母七隻、軽空母八隻、戦艦七隻、重巡八隻、軽巡一三隻、駆逐艦六九隻から成っていた。空母機は戦闘機四七五、急降下爆撃機二三三、雷撃機一九四計九〇二機で、日本側の二倍の兵力である。戦闘機のうちには夜戦用F6F二四機、夜戦用F4U三機が含まれている。その他の戦闘機は全部F6Fである。
六月十八日の午後の索敵により、一五四〇本隊の東方三八〇カイリに三群の米機動部隊を発見したが、小澤長官は、飛行機隊の収容が夜間となるため攻撃を断念、十九日の昼間航空決戦を企図して南方に避退、翌朝南方から攻撃することにした。
基地航空部隊の十九日の作戦可能兵力は、トラック、グァム、ヤップ、ダバオ各基地総計一五〇機余りで、機動部隊の決戦に策応できるものではない。一方、八幡空襲部隊も天候不良のため零戦の進出ができず、硫黄島の兵力は零戦三機、陸攻及び天山二六機に過ぎなかった。
「米側は、味方潜水艦の触接によって分かっていた日本艦隊を、十七日見失ってしまったが、六月十八日夕刻、小澤艦隊は無線封止を破ったので、これを探知し得た。小澤艦隊の位置は米艦隊の西南西三三五カイリにあった。
米空母機の行動半径二〇〇カイリ以下に比し、日本機の行動半径三〇〇カイリ以上あることを知っていた米機動部隊指揮官ミッチャー中将は、日本の機動部隊に対し翌十九日早朝を期して攻撃したいと望んだ。そのためには、夜西進するほかはなかった。ミッチャー中将は、スプルーアンス大将に、この行動を提案した。
スプルーアンス提督は不同意の返事を送った。彼も日本空母群を思い切って叩きたかったが、彼に与えられた至上任務は、サイパン、テニアン及びグァムを攻略し、占領し、かつ防衛することだったからである」(「提督ニミッツ」「ニミッツの太平洋海戦史」参照)

六月十九日〇三〇〇、わが機動部隊はグァムの西方約三〇〇カイリの地点にあった。前衛(栗田中将指揮の第二艦隊及び三航戦〈「千歳、千代田、瑞鳳」〉)と本隊(一航戦「大鳳、翔鶴、瑞鶴」、二航戦「隼鷹、飛鷹、竜鳳」)との距離は一〇〇カイリ、二航戦は一航戦の北一五キロに占位し、縦深配備をもって進撃していた。針路は五〇度であった。
日出は〇五二二であった。既に〇三三〇から、小澤艦隊の各艦からは次々に索敵機(四四機)が出ている。
〇六三〇以降米機動部隊発見報告が次々と入ってきた。〇六三四、一群の米機動部隊(「七イ」呼称、サイパンの二六四度一六〇カイリ)を発見、さらに〇八四五「一五リ」(「グァムの南西約七〇カイリ」及び「三リ」(「七イ」の北方五〇カイリ)の二群の米機動部隊を発見した。これらの報告のうち、「一五リ」と「三リ」の発見位置は誤差が大きく、その後の作戦をミスリードすることになる。
「七イ」の米機動部隊は栗田前衛部隊との距離約三〇〇カイリ、本隊との距離約三八〇カイリにいた。
第一次攻撃 〇七二五、三航戦零戦一四、爆戦四三、天山七計六四機が発進した。攻撃隊は、攻撃目標「七イ」に向かって高度六、〇〇〇メートルで進撃中、レーダーの誘導により待ち受けていたF6Fに〇九三五奇襲を受け、多数が撃墜されている。
F6Fの邀撃陣を辛うじて突破して、米空母部隊の輪型陣上空に達した機は、次は恐るべき威力を持つVT信管をつけた弾丸によって撃破されていった。
鉄壁の防空網を潜り抜けた一機は重巡「ミネアポリス」に至近弾を投下し、他の一機は戦艦「サウスダコタ」に爆弾を一発命中させている。
米軍側はF6F一機を失っただけであったが、わが方は零戦八、爆戦三一、天山二計四一機が未帰還となった。
一航戦は、〇七四五、攻撃目標「七イ」に向かって、零戦四八、天山二七、彗星五三計一二八機から成る攻撃隊を発進させた。
本攻撃隊の発進直後、彗星一機が「大鳳」を雷撃した米潜水艦の雷跡二本を認め、その一本に体当り自爆した。この勇敢なパイロットは小松咲男飛曹長であった。残りの一本は「大鳳」に命中したが、これが同艦の命取りになろうとは誰も予測できなかった。
攻撃隊は、味方前衛隊上空通過時味方の対空砲火を受け、若干の損害を出している。
攻撃隊は、一〇四〇敵部隊を発見、一〇五三攻撃を始めた。約四〇機のF6F群は、米空母部隊の前方五〇カイリでわが攻撃隊を邀撃し、零戦隊と交戦した。
空戦に生き残ったものは、警戒艦上空で激しい対空砲火を浴び、そのうち一機は戦艦「インディアナ」の舷側に激突した。わずかに数機が米空母に到達し、彗星二機の至近弾によって空母「バンカーヒル」に火災を起こさせただけに終わった。
未帰還天山二四、彗星四一、零戦三一、自爆彗星一、「大鳳」に帰着後戦死零戦二、前衛に不時着彗星二という潰滅に近い大損害を出している。
二航戦からは、〇九〇〇零戦一七、爆戦二五、天山七計四九機(零戦四、爆戦一六は空中集合ができず別動)が発進、「七イ」の目標に向かったが、途中命令により目標を「三リ」に変更した。一一四五「三リ」の予測地点に到着したが、敵を発見できなかった。一一五五目標を再び「七イ」に変更して進撃中、一二〇〇F6F四〇機以上の攻撃を受けて避退、一六二五帰投した。空戦で自爆零戦一、未帰還爆戦五、天山一の被害を出した。なお、別動隊は敵を発せず、一四〇〇帰投している。
第二次攻撃 第二次攻撃隊は全力をもって「一五リ」の目標に対して攻撃することになった。
一航戦からは、零戦四、爆戦一〇、天山四計一八機の攻撃隊一〇二〇「瑞鶴」を発艦、一〇五〇爆戦隊は天山隊に合同したが、直ぐに天山一機及び爆戦隊は分離してしまい、天山三機は目標を発見できず、一五一〇母艦上空に帰投し、そのうち一機は不時着水している。
別動の爆戦隊一〇機は予測地点に到着したが、編隊が支離滅裂となり、その後の行動は不明、爆戦八機、天山一機が未帰還となった。
なお、零戦隊四機は引返して上空直衛となり、一二三〇着艦している。
二航戦第二次攻撃隊は九九艦爆隊と彗星艦爆隊で編成されたが、合同できず、二隊に分かれて進撃した。
九九艦爆隊(零戦二〇、艦爆二七、天山三計五〇機)は一〇一五発進、予測地点に敵を見ず、一五〇〇グァム上空に到着した。着陸前F6F約三〇機に襲われ、大被害を出している。零戦一四、艦爆九、天山三計二六機を失った。この時の零戦隊指揮官小林保平大尉の奮戦について、淵田・奥宮両氏著「機動部隊」から要約引用する。
「援護戦闘機隊は着陸直前の九九艦爆を救うために、優秀な敵戦闘機群に対し敢然と不利な態勢から反撃に転じた。援護戦闘機隊の指揮官小林保平大尉の奮戦は目ざましいものであった。同大尉は基地上空で着陸直前の艦爆隊を身をもってかばいながらも、自らもよくその五機を撃墜破したが、自機も傷つき、ついに海上に不時着水のやむなきに至った。
この日、九九式艦爆隊指揮官であった宮内安則大尉が、後に隼鷹に帰還して報告した際にも『小林大尉のような戦闘機隊指揮官に援護してもらうなら、どんな警戒厳重な敵の上空にも突進していきます。彼に援護してもらって、それでも敵機にやられるなら思い残すことはありません』と後輩である小林大尉を激賞した」
彗星隊(零戦五、彗星七計一二機)は一〇三〇発進、途中零戦三機、彗星一機は遅れ、残りの零戦二機、彗星六機は一二四〇予定地点に到着したが敵を見ず、その後一三四〇米機動部隊を発見攻撃した。彗星一機(指揮官機)はロタに、一機はグァムに着陸している。零戦四機、彗星五機は帰還しなかった。
三航戦は他隊の飛行機収容のため機を失し、第二次攻撃は実施していない。
魚雷一本を受けた旗艦「大鳳」は、そのまま作戦を続けていたが、一四三二突然大爆発を起こし、一六二八沈没した。原因は、魚雷を受けた際ガソリン・タンクの破孔から生じた揮発油ガスが充満し、これが爆発したものであるが、引火の原因については判然としていない。
「大鳳」の大爆発の二〇分前一四一〇に、「翔鶴」が沈没した。これは、一一二〇に米潜水艦の雷撃を受けて火災となっていたものである。
「大鳳」の爆発により、第一機動艦隊司令部は、一六〇六「羽黒」に移乗し作戦指揮を続けた。
機動艦隊司令部は、戦果も現有兵力も判然としないが、「三リ」及び「一五リ」の米機動部隊に対する懸念もあり、一七一〇まず全軍に北上を命じた。そして、翌二十日〇七〇〇の集合地点を指示し、その時の針路を九〇度と定めた。針路が九〇度で敵方に向かっていることは、決戦再興の意図を持っていたものと解せられる。戦果について確認していない司令部は、相当の戦果を挙げたかも知れないと考えていたのであろう。
司令部は、夜になって、航空攻撃不十分の懸念があり、特に「一五リ」に対し攻撃を実施できなかったことを知った。また、残存航空兵力約一〇〇機(零戦四四、爆戦一七、艦爆一一、艦攻三〇計一〇二機)に過ぎないことを知り、西方に避退し、補給の上、基地航空部隊兵力と呼応して、二十二日を期し再決戦を行うことを決意している。
二十日〇七〇〇機動艦隊は予定地点に集合した。
これより先に、機動艦隊は早朝から一五機を東方索敵に発進させたが、米機動部隊を発見していない。基地航空部隊の索敵機から、一〇四〇にペリリューの二〇度五〇〇カイリ(機動艦隊の九五度二八〇カイリ)に米機動部隊発見の報告があった。ちょうど「瑞鶴」へ移乗中(一二〇〇旗艦変更)の司令部は、これは味方を誤認したものと判断したが、栗田前衛部隊指揮官の進言で、各部隊は補給を止め西方へ避退している。
わが索敵機は一六一五米機動部隊発見を報じ、また敵信傍受により、米大型機がわが部隊に触接していることが明らかになった。薄暮雷撃のため、一航戦から七機の天山攻撃隊が一七二五に発進したが、目標を発見できず、三機未帰還、四機不時着水し、全機を消耗している。
米機動部隊主力は、日本艦隊を索めて二十日正午針路を北西に向けていた。米索敵機は一機も日本艦隊を発見していなかったが、一五〇〇になって、索敵機から日本機動部隊発見の報が入った。
日本艦隊は米機動部隊の西北西二二〇カイリを西方に航進していた。米空母機の攻撃圏外にあり、かつ夜間着艦になる状況にあったが、ミッチャー提督は、発進準備ができている全機(戦闘機八五、爆撃機七七、雷撃機五四計二一六機)を一五三〇までに発進させた。
わが機動艦隊は、雷撃機発進直後の一七三〇頃から約一時間にわたり、米空母機の襲撃を受け、零戦二三機、爆戦一九機で邀撃した。ベテランが多かったこの時の零戦隊は活躍した。米側資料によれば、米軍は二〇機を失っている。わが方は、自爆及び未帰還零戦・爆戦各一二機、不時着水零戦三機、大破零戦三機の損害を出した。
空母「飛鷹」は来爆協同攻撃を受け魚雷一本命中、運航不能となり漂流中、米潜水艦の魚雷一本命中、一九三二に沈没した。補給部隊の油槽船二隻は被爆後、味方駆逐艦により処分された。空母「瑞鶴、隼鷹、千代田」、戦艦「榛名」、重巡「摩耶」も損傷している。
米空母機は無理な長距離攻撃を行ったため、燃料不足の機が続出した。また、パイロットの多くは夜間着艦に慣れていなかった。ミッチャー提督は、日本潜水艦の目標になるのもかまわず、全灯火を点灯させた。しかし、着艦の失敗と不時着水で八〇機が次々と失われ、四九名が落命している。
小澤中将は「明朝全力攻撃」を意図したが、断念せざるを得なかった。機動部隊に帰投しなかった空母機は、記述以外のものを含め三百数十機に達し、残存機数は全機で六一機(他に第二艦隊の水偵一二機)に過ぎなかったからである。
二日間の戦闘で、わが方は正規空母二隻、特空母一隻を失うとともに、その航空兵力の大部を消耗し、機動部隊としての戦力を喪失してしまった。そのうえ、戦果も極めて少なかった。
機動部隊は六月二十二日沖縄の中城湾に入港した。わが海軍の最後の望みをかけた「あ」号作戦も、悲惨な敗北に終わったのである。
制空権、制海権なき島嶼での戦闘は全く一方的な戦いとなった。サイパンは七月八日、テニアンは八月三日、グァムは八月十一日に攻略された。
「あ」号作戦不成功の原因はアウトレンジ戦法強行のほか少なくないが、そのうち主要なものについて、まず野村実氏著「歴史の中の日本海軍」から引用する。
「空母は強力な攻撃力を持つが、その防御力は脆弱であった。
しかし、戦時中に建造されたエセックス級の空母を中心とする米高速空母機動部隊の防御力は、わが方の予想を、はるかに超えたものであった。その最大の原因は二つある。
第一は、優れた艦上レーダーによる空中探知能力と、艦上と空中航空機との間のCIC(戦闘情報センター)を通ずる電話通信能力、それに多くの戦闘機の存在である。
第二は、米軍が対空砲弾に装備したVT信管である」
わが機動部隊の攻撃隊はレーダーの威力を軽視し、高度六、〇〇〇メートル位で進撃し、敵部隊の前方一五〇カイリ付近で海上レーダーに捕捉され、五〇カイリ付近で、艦上からの電話指示に誘導される敵戦闘機群に邀撃された。この敵戦闘機を振り切ったのちも、輪型陣を形成する敵警戒艦の強烈な対空防御幕(VT信管採用)を突破しなければ、目標の敵空母群に達し得なかった。
十九日の戦闘で、日本機が木の葉のようにバタバタと海中に落下するのを目撃した米水兵は、「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んだ。日本人としては、まことに口惜しい言葉であるが、これが実相であったろう。
米機動部隊は、十九日には日本艦隊を発見できず、二十日夕刻にやっと発見して一回だけ攻撃を実施している。従って、米側は十九日は防御だけに専念して、保有する戦闘機全機(四七五機のうち四五〇機出撃)と有効な対空砲火を駆使して、結果的には、日本の空母機を多数撃墜するという戦果を挙げることができた。
アウトレンジ戦法は、日本海軍機の航続力の長い利点を採用し、一見合理的な戦法である。しかし、ソロモンの航空消耗戦で練達の搭乗員を多く失った結果、航法能力もあやしい、戦闘能力は緒戦時の半分にも達しない、搭乗員が大半を占める当時の実情から見ると、無理な戦法であった。かりに、練度が十分であっても、防御力を強化した相手に対しては、損害は大きかったと思われる。
米艦隊が勝利を得たにもかかわらず、「真珠湾の航空関係者は、スプルーアンスが世紀のチャンスを逸したのだと信じて疑わなかった。そして『飛行機に乗ったこともない者に飛行機乗りの指揮をさせるから、こんなことになるのだ』とだれもがこぼした。
スプルーアンスの戦術の正しさが完全に立証されたのは、第二次大戦終了後のことである。日本側の記録が手に入るようになってみると、運のなせるわざか勘によるものか、スプルーアンスが第五八機動部隊を六月十九日に最良の地点に置いたことが判明した」(「提督ニミッツ」)
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