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零戦搭乗員会「海軍戦闘機隊史」より

第一章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘
第三節 太平洋戦争緒戦における栄光
1、ハワイ海戦
 日本海軍は、明治四十年以来米国を主な仮想敵国としていたが、その兵力は、ワシントン条約によって主力艦(戦艦、巡洋戦艦)と航空母艦において対英米六割(五・五・三)の比率に抑えられていた。
 この六割海軍の差を補うものとして、日本海軍の基本的な戦略戦術は「戦艦主兵」の思想に基づく「邀撃漸減作戦」であった。
”太平洋を西進してくる米国艦隊を途中に邀し、潜水部隊、水雷部隊、航空部隊などをもって漸減作戦を実施し、彼我の勢力がほぼ伯仲したところで全力決戦を行う”というものである。
 そのために、用兵と技術の両面にわたって研究し、訓練をやってきたが、図上演習を何十回やってみても、この邀撃作戦によって日本海軍は一回も勝利を得たことがなく、おそらくジリ貧におちいると懸念され、演習中止となるのが恒例であった。
 対米英戦において勝算を立て得る理論的な兵術思想は、わずかに「航空主兵論」だけであった。
 昭和十年ごろから、海軍航空関係者の一部によって、航空主兵の兵術思想が提案されていたが、大艦巨砲の戦艦主兵思想に凝り固まっていた海軍首脳の頭を切り替えさせることはできなかった。
 連合艦隊司令長官山本五十六大将は、早くから従来の邀撃作戦方針を不適当とし、航空兵力を特に重視してきた。日本だけではなく、世界の海軍が「戦艦主兵思想」に徹し、戦艦中心の軍備を推進している時に、それを越えて「航空主兵」によるハワイ攻撃を着想したのは非凡である。
 元来英米との衝突を避けたいと念じていた山本大将は、もし戦になった場合には、連合艦隊長官として、ハワイ攻撃を決意していたので、海軍首脳部の反対があっても、この計画を押し切ろうと心に決めていた。
 太平洋戦争は、日本にとって「石油に始まり、石油に終わった」といわれているほどであり、第一段作戦の第一目標である南方資源獲得に兵力を集中すべしと主張する軍令部は、ハワイ作戦は投機的で全戦局を誤ると反対していた。しかし、山本長官の職を賭してもハワイ作戦を決行するという決意と信念に折れて、九月二十四日軍令部は永野修身軍令部長の承認を得てようやく本作戦を採択することになった。
 十六年十二月一日御前会議で開戦の決定がなされた。この五日前十一月二十六日、機動部隊は択捉島単冠湾を出撃している。
 十二月八日、機動部隊の六隻の空母「赤城、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴」から発艦した第一次攻撃隊一八三機(飛行隊総指揮官淵田美津雄中佐、水平爆撃隊九七艦攻四九、雷撃隊九七艦攻四〇、急降下爆撃隊九九艦爆五一、制空隊零戦四三)は○3二五(現地時間七日午前七時五十五分)真珠湾に殺到した。わが対米最後通告から二十五分経過している筈であった。艦攻隊は敵艦艇の雷撃・爆撃を、艦爆隊は飛行場の爆撃を決行した。
 続いて第二次攻撃隊一六七機(指揮官瑞鶴飛行隊長嶋崎重和少佐、水平爆撃隊五四、急降下爆撃隊七八、制空隊三五)が○四三二から攻撃した。
 制空隊の任務は、制空と地上の敵機攻撃であった。第一次制空隊の指揮官は板谷茂少佐(赤城)で、その第一隊は板谷少佐、第二隊は志賀淑雄大尉(加賀)、第三隊は菅波政治大尉(蒼龍)、第四隊は岡島清熊大尉(飛龍)、第五隊は佐藤正夫大尉(瑞鶴)、第六隊は兼子正大尉(翔鶴)が指揮した。
 第二次制空隊の指揮官は進藤三郎大尉(赤城)で、第一隊は進藤大尉、第二隊は二階堂易大尉(加賀)、第三隊は飯田房太大尉(蒼龍)、第四隊は熊野澄夫大尉(飛龍)が指揮した。
 艦隊の上空警戒のため「翔鶴、瑞鶴」の零戦を主力として延八○機が充てられている。
 当時機動部隊は、米戦艦八隻が真珠湾在泊中、空母二隻は出動中所在不明との情報を得ていた。「レキシントン」はミッドウェーへ飛行機を輸送中であり、「エンタープライズ」はウェークに飛行機を輸送した後、真珠湾への帰路にあった。
 第一次攻撃隊は○三一九「ト・ト・ト」と続く「ト連送」(「全軍突撃せよ」の略語)、○三二三「トラ・トラ・トラ」(「われ奇襲に成功せり」)を発信し、○三二五から攻撃を開始した。
 全軍突撃開始後、第一制空隊は三群に分かれた。第一、第二隊は真珠湾上空、第三、第四隊はホイラー飛行場上空、第五、第六隊はカネオヘ飛行場上空へそれぞれ直行し、攻撃隊の上空にあって敵戦闘機の反撃に備え掩護に任じた。邀撃してきた敵戦闘機(P40、P36)の数は少なく、これらもたちまち撃墜してしまったので、○三三○には既に空中に敵機の姿を認めなくなった。そこで、六群に分かれて各飛行場の地上機を銃撃した。敵地上機は分散せず一ヵ所に並べてあったので攻撃は容易であったが、風向きに対する考慮が足りず、炎上中の飛行機の煙が風下の飛行機をおおい、撃ち漏らすものが少なくなかった。零戦の二〇ミリ機銃はこの地上銃撃でも十分な威力を発揮している。
 次いで第二次攻撃隊の戦果拡充の攻撃が始まった。第二次攻撃隊一六七機は○四一○オアフ島北端のカフク岬沖に姿を現わし、○四三二(現地時間午前八時五十二分)に攻撃を開始した。
 進藤三郎大尉指揮の制空隊は、オアフ島の制空権を第一次攻撃隊から引き継ぎ、反撃してきた若干の敵戦闘機とわたり合い、鍛え抜いた空戦の妙技で零戦の威力を発揮して制空権を保持し、続いて地上の飛行機を銃撃し大戦果を挙げた。
 第二次攻撃に対しては敵の反撃も激しかったので、第二次攻撃隊は第一次攻撃隊に比べて被害が大きかった。
 わが方の被害は、第一次攻撃隊の未帰還九機(雷撃隊五、急降下爆撃隊一、戦闘機隊三)、被弾四六機以上に対して、第二次攻撃隊は未帰還二〇機(急降下爆撃機隊一四、戦闘機隊六)、被弾六五機にものぼった。
 この中には対空砲火によって被弾し、カネオヘ基地に突入自爆した飯田房太大尉が含まれている。飯田大尉の二番機厚見俊一飛曹、三番機石井三郎二飛曹も未帰還となっている。なお、飛龍艦戦隊の西開地重徳一飛曹はニイハウ島に不時着後自決したことが戦後判明した。
 機動部隊は、○九二二(現地時間午後一時五十二分)頃攻撃隊の収容を終わり、第二撃を行わず、高速で北方に離脱した。「ニミッツの太平洋海戦史」は、わが機動部隊が第二撃を実施しなかったことに触れて、次のように論評している。
「攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は湾内の近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四五〇万バレルの重油を見逃した。長いことかかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約束から考えた場合、ほとんどかけがえのないものであった。この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう」

第二撃こそ実施されなかったが、わが艦隊の挙げた戦果は実に偉大である。攻撃終了後判定した戦果と、戦争後入手した米側資料(カッコ内)とを比較してみる。

撃沈 戦艦四、甲巡、軽巡、給油艦各一(戦艦四、標的艦一、敷設艦一)、大破 戦艦二、駆逐艦三(戦艦一、軽巡二、工作艦一、駆逐艦三)、中破 戦艦二、甲巡又は乙巡二(戦艦三、乙巡一、水上機母艦一)。
 地上の飛行機撃破の戦果は、フォード基地二四機(飛行艇二七)、ヒッカム基地三七機(爆撃機三四)、ホイラー基地七八機(戦闘機八八)、バーバース基地六二機(戦闘機、艦爆四三)、カネオヘ基地四○機(飛行艇三二)、ベロース基地六機(偵察機六)計二四七機(二三○)となっている。わが方はこのほか空中戦で一七機を撃墜している。なお、真珠湾攻撃調査委員会報告によれば、飛行機の損失は完全に一八八機を喪失したとある。

わが海軍は一般に戦時の命中率は平時の三分の一程度とみていた。しかし、この攻撃における対艦船命中率は、確認できたものだけでも、雷撃九○%、水平爆撃二六・五%、急降下爆撃四七・七%という驚くべき数字となっている。
 わが機動部隊の攻撃前、米軍は若干の異変を探知したが、有効な対策をとらなかった。これは「真珠湾空襲などまさかあるまい」という油断が、惨敗を招く一因となった。
 山本長官が戦争の終結を早めるために、細心周到な準備の後、死中に活を求め、長駆敵の本拠地を突いた、大胆不敵な真珠湾攻撃は大勝を博し、軍事戦略としては奇襲の成功例となっている。
 しかしながら、山本長官が再三念を押していたわが国の対米最後通告が、ワシントンの日本大使館スタッフの不手際により、ハワイ攻撃開始に間に合わないという大失態を演じた。ルーズベルト大統領は、この失態を最大限に利用し、真珠湾攻撃は「だまし討ち」と発表して、ハワイにおける大損害を糊塗するとともに、中立志向の国民を対日戦に結集させることに成功し、チャーチル英首相を狂喜させたのである。
 これによって、山本長官が「開戦劈頭に敵主力艦隊を猛撃撃破して、米海軍及び米国民をして救うべからざる程度にその士気を沮喪せしむる」第一の目的は一挙に崩れてしまった。
 米空母は無傷のままわが攻撃を免れてしまった。従って、山本長官としては、自己の作戦目的の一部を達成できず、そのため長期不敗の態勢はまだ固まらず、しかも敵空母の補足撃滅という最も困難な作戦を残すことになった。
 ハワイ作戦の二日後、十六年十二月十日南部仏印の基地から爆撃隊九六式陸攻三四、雷撃隊五一(一式陸攻二六、九六式陸攻二五)計八五機の陸攻隊がマレー半島東岸のクワンタン沖に出撃した。英国極東艦隊の誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈し、英極東艦隊司令長官サー・トム・フィリップス大将も多くの乗組員とともに海中に没した。
 飛行機だけで戦艦を撃沈したマレー沖海戦の戦果を誰よりも一番喜んだのは山本長官であったようである。これに対し、一部には、ハワイ海戦はいわゆる”据えもの斬り”であり、マレー沖海戦は敵に戦闘機の護衛がなかったため、攻撃が成功したものだと唱えるものがいた。
 しかし、真珠湾とマレー半島沖で示した飛行機の威力は、大艦巨砲主義の終焉を告げる警鐘であった。この戦訓によって永年の夢を醒ましたのは、大敗した米海軍で、直ちに航空主兵の方針に切替え、新造の高速戦艦さえ空母の直接護衛兵力に使用することになる。これに比べて、わが海軍では、飛行機の威力に対する認識は急激に深まったものの、戦艦主兵の思想は依然として根強く、用兵や軍備の中心を航空に転換することは、なかなかできなかった。
 大戦果によって国内は大いに沸き立ち、海軍自体も無敵帝国海軍を再認識する気分となり、そこに慢心と油断という大敵が忍び込む素地が醸し出されることになった。
2、比島航空撃滅戦
 太平洋戦争緒戦において零戦の真価を遺憾なく発揮したのは、ハワイ作戦よりも比島航空撃滅戦である。
 開戦初頭の米航空兵力の撃滅作戦は、比島攻略の成否を左右するものであった。連合艦隊はハワイ奇襲作戦を最優先させ、ハワイ作戦開始まで、他の地域の戦闘行為は開始しないよう厳命した。そのために、本作戦では、現地時間の早朝に全力攻撃を行うことにした。攻撃時、ハワイ作戦開始後四時間経過(○七三○)することになるので、奇襲を期待することができず、強襲を覚悟しなければならなかった。
 わが攻撃兵力は陸攻一〇八機、零戦九○機と計画されていた。在比島の米航空兵力(戦闘機及び爆撃機)は戦闘機一一○機(P40約二五、主力P35約七○、P36)、爆撃機約四○機(B17、B18)と予想され、実際には戦闘機一〇〇機(主力P40七二等)、爆撃機五○機(B17三五等)であった。戦闘機の主力は予想と違って新鋭機P40であった。
 開戦直前、比島の米軍機はおおむねルソン島南部に配置されていて、わが基地(高雄、台南)からルソン島のクラークフィールドとイバまでの距離は約四五○カイリである。単座戦闘機として世界最高の航続力を誇る零戦にとっても、それはあまりにも長大な距離であった。
 そこで、最初は、小型空母の「龍驤、瑞鳳、春日丸」の三隻を使用する計画であった。
 しかし小型空母は、劣速であること、搭載機数が少ないこと、未熟搭乗員の発着艦が容易でないこと、実戦時には上空直衛機を配置しなければならないこと等、問題点が多かった。
 司令齊藤正久大佐の台南空、亀井凱夫大佐の三空の両部隊では、三空飛行長柴田武雄中佐の提案により、巡航時燃料消費量の節約による行動能力の延伸の工夫と訓練が行われた。進撃予定高度四、○○○メートル、陸攻の巡航速力に合わせて一一五ノット、プロペラ・ピッチを増し回転数を落し、気化器の燃料混合比をできるだけ薄くした。通常燃料消費平均毎時一〇〇リットルであったが、遂に八〇リットル(坂井三郎機の記録六七リットル)という好成績を収めるようになり、空母を使用せずに五〇〇カイリ以上の遠距離の攻撃が可能になった。
 十二月八日の発進は〇二三二と予定された。
 前日の七日二一三五、第一天候偵察隊の陸攻二機、二三三〇に第二天候偵察隊の陸攻二機が台南基地を発進した。第二天候偵察隊の二番機には島田航一第十一航空艦隊航空乙参謀が搭乗し、ルソン海峡バタン島の南西一四〇カイリまで南下して天候偵察を行った。その報告により、作戦地域の天候は戦爆連合攻撃隊の夜間進撃が可能であると判断された。しかし、わが偵察機の動静を探知した米軍は八日〇〇一五マニラからイバ、クラークの両基地に対し全機一五分待機を下令した。これは高雄通信隊の敵信班が米軍の通信を傍受して判明した。同時に米軍はわが天候偵察隊の使用電波を妨害し始めた。さらに高雄通信隊は八日〇一〇〇、米軍の戦闘機六機がわが天候偵察隊邀撃のため、イバ基地を発進したことを傍受している。
 これらの状況から、十一航艦司令長官塚原二四三中将は、予想通り米軍の警戒は厳重をきわめ、しかも米軍機は夜間空戦能力さえある優秀な技量を持っていると判断した。当時、わが海軍では探照灯の協力がなくては、戦闘機の夜間空戦を行うことはできなかった。この時わが海軍は、レーダーを研究中でその機能を知っていたが、比島のイバ基地にレーダーがあることを知らなかった。また、米戦闘機の計器飛行能力が優れていることも知らなかった。
 攻撃隊の発進予定時刻が近づくにつれ、台南、高雄方面は〇一〇〇頃から濃霧が発生し、出撃することができなかった。基地航空部隊は、〇三二三機動部隊の奇襲成功、〇四一五頃米太平洋艦隊司令長官のアジア艦隊に対する作戦開始発令を知るとともに、B17による台湾先制攻撃を懸念し、いらいらとして霧の晴れるのを待っていた。
 基地航空部隊は、攻撃隊発進遅延に伴い、やむを得ず再三攻撃計画を変更した。〇八五〇頃から霧があがり始めた。塚原中将は、全攻撃部隊を米戦闘機の主力が集中しているクラークとイバの両基地に集中し、低速の九六式陸攻隊は〇九一五、その他は一〇一五発進し、一三三〇を期して両飛行場を攻撃するよう計画を改めた。
 高雄方面の霧は、攻撃隊発進直前の一〇〇〇頃ようやく消えた。
 イバ基地に向かう攻撃隊は、一式陸攻五三機と三空飛行隊長横山保大尉の率いる五一機が一〇三八から一〇五五に発進した。
 クラーク基地に向かう攻撃隊は、一式陸攻二六機、九六式陸攻二七機と台南空飛行隊長新郷英城大尉の率いる零戦三四機が〇九一八から一〇四五に発進した。
 比島の米軍は夜明前に真珠湾空襲の電報を受け、航空部隊は直ちに緊急体制に入った。航空部隊指揮官ブレリトン少将は、日出後B17による台湾爆撃を提案し、マッカーサー大将は、準備を命じたが許可はしなかった。
 〇九〇〇米軍は日本軍の大編隊がリンガエン湾を南下中との警報を発し、クラーク基地のB17全機三五機は空中に退避し、同基地のP40ニコ飛行隊(一コ飛行隊一八機)は邀撃のため発進した。これは日本の陸軍重爆隊で、一〇二〇頃バギオとツゲガラオを爆撃したものである。
 一一〇〇ブレリトン少将の三度目の台湾爆撃要求に対してマッカーサー大将は初めて許可した。台湾爆撃の準備のために、空中退避中のB17全機が一二三〇までに着陸している。
 一二三〇頃イバのレーダーは再び大編隊を一〇〇カイリに探知し、戦闘機部隊は邀撃配置につくように命ぜられた。三コ飛行隊は一二四〇までに離陸し、一コ飛行隊はクラーク基地で、一コ飛行隊はデルカメン基地で地上待機していた。
 この時、タイミング良くわが攻撃隊が殺到した。
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P40
 新鋭機「空の要塞」B17全機三五機が台湾爆撃準備のために集中しているクラーク基地上空に、新郷隊零戦三四機と一空の九六式陸攻二六機、高雄空の一式陸攻二七機が進入した。飛行場には多くの飛行機が並び、たまたま上空には警戒する米戦闘機はなく、攻撃は奇襲となった。一三三五、九六式陸攻隊続いて一式陸攻隊が爆撃し、合計六〇キロ爆弾六三六個を投下した。零戦隊は、一コ中隊(九機)が上空制圧を行うなかを、他の三コ中隊が地上銃撃を反復した。クラーク飛行場では、空襲警報の二、三秒後に爆弾が落下し、地上の施設がほとんど破壊された。また地上の飛行機は銃爆撃で破壊炎上し、第二〇戦闘機隊(P40一八機)はわずかに四機が離陸に成功したに過ぎない。
 クラーク飛行場攻撃を終えた新郷隊は、さらにデルカメン飛行場攻撃に向かった。同隊はデルカメン飛行場で米戦闘機と激しい空中戦を演じ、その大半を撃墜した後同飛行場の銃撃に転じた。
 一方、零戦五一機の横山隊は、一三四〇イバ飛行場上空に到達した。米戦闘機数機が上空に待機していたので、わが零戦隊はこれと交戦し、その大部を撃墜した。その直後高雄空の一式陸攻二七機が六〇キロ爆弾三二四コで飛行場を爆撃し、一分のち鹿屋空の一式陸攻二六機が二五〇キロ爆弾二六コ、六〇キロ爆弾一六二コを投下している。
 米戦闘機群を撃破した横山隊は、一コ中隊が上空制圧を行い、他は地上銃撃を反復した。
 イバ飛行場攻撃を終えた横山隊は、クラーク飛行場に向かい、米戦闘機と空戦してこれを撃退した後、在地機の銃撃を繰り返した。
 わが航空部隊の攻撃は数十分にわたり徹底的に行われ、米航空部隊の損害は甚大であった。米側の記録によれば、この日の撃墜又は地上炎上撃破された飛行機は次のとおりである。
B17 一五~一八(クラーク基地、二、三機修理可能)
P40 四二~五五(うち三〇~三五地上)
P35 三(クラーク上空の空戦)
その他 二七~三二
合計 八七~一〇八機

 さらに、クラーク及びイバ両基地の施設と滑走路は大損害を受け、基地の機能は失われた。死傷者約二五〇名を出している。
 米航空部隊の戦力はこの日で半減し、重大な作戦上の困難に直面することになった。
 わが方の損害は陸攻二機(離陸時一、帰投中の不時着一)、零戦七機であった。
 この日、台南空の零戦七機、九六戦六機、三空の九六戦七機が上空直衛に当っている。
 このようにして開戦第一日の航空作戦を終わった。航空部隊は当日の戦果を総合し、撃墜、在地機の炎上撃破を含めて、米軍に与えた損害を約一二五機(実際は約一〇〇機)と判断した。その機数は司令部が判断していた在比島米軍機の約半数に及ぶものである。航空部隊は米戦闘機の猛烈な邀撃を予期していたが、邀撃した米戦闘機の数は少なく、わが零戦はその大部分を撃墜してしまった。米戦闘機隊はP40四コ飛行隊、P35一コ飛行隊、九〇機を準備していたが、わが攻撃隊が一三三五から攻撃を開始した時には、ニコ飛行隊は地上待機をしており、空中にあった三コ飛行隊のうち二コ飛行隊(バターン、マニラ上空哨戒中)は日本軍の攻撃を知らなかった。B17は台湾爆撃準備のためクラーク基地に終結中で、わが攻撃隊の爆撃と銃撃の好餌となった。
 攻撃成功の原因は、零戦と一式陸攻の性能と搭乗員の優秀な練度など種々あろうが、その一つに思いがけない幸運があった。それは濃霧により攻撃部隊の出撃が遅れたため、わが陸軍重爆隊の攻撃が陽動的効果を示し、わが攻撃が比島地方時の午後零時三〇分頃、すなわち米軍の昼休み時間となったためだろうと航空部隊司令部では推察している。
 邀撃してきた米戦闘機は大部分がP40で、P35は少数であった。P40は一二・七ミリ機銃六丁を持つ米陸軍最新鋭戦闘機であったが、降下時の加速は優れていても、旋回性能では零戦に比し各段と劣り、搭乗員の技量も優秀とはいえなかったようである。まして旧式のP35は零戦の敵ではなかった。
 本作戦においても、零戦は速力、上昇力、旋回性能に無敵の優秀さを示し、ことに二〇ミリ機銃は対空対地ともにその威力の絶大なことを再び証明した。航続力の遠大さは米軍には信じられず、空母から発進したと思っていたようである。マッカーサー将軍もその一人である。

 十二月十日第二撃 当日は、陸軍の上陸部隊護衛の他に、航空基地(ニコルス、デルカメン、ニールソン)、キャビテ軍港施設、マニラ湾内の船舶を攻撃することになっていた。陸攻八〇機、零戦六八機が、一〇〇〇過ぎから、断雲が低迷する中を次々と発進していった。
 一空の九六式陸攻二六機は一四〇〇マニラ湾上空に達し、キャビテ湾内の艦船、キャビテ海軍工廠を攻撃した。この空襲でキャビテは基地としての機能を完全に喪失してしまった。
 高雄空の一式陸攻二七機は、台南空零戦一八機の援護を受けて、一三四五デルカメン上空に進入したが、基地が密雲に閉ざされていたため、陸攻隊は目標をマニラ港艦船に変更し、輸送船四隻直撃弾を与えている。
 台南空零戦隊はデルカメン基地上空で邀撃してきた米戦闘機と交戦し、その五機撃墜(うち不確実二)した。その後銃撃に移り、在地の飛行機二〇機を炎上撃破した。地上銃撃中に零戦一機は米戦闘機に撃墜され、他の一機は帰投中雨のために紅頭嶼南方に不時着水した。
 ビガン上陸部隊護衛に向かった台南空新郷大尉の零戦十六機は一四二〇までビガン上空を哨戒した。この隊はクラークに逃走するB17を追撃し、苦心の末、やっと撃墜した。これは零戦による最初のB17撃墜となったが、燃料タンクに防弾シールを施してある強固なB17は、弾丸が命中してもなかなか火を吐かず、十二・七ミリ機銃でしたたかに反撃して、B17の手強さを、この時の零戦操縦者に印象づけている。

 
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B17フライングフォートレス
 横山大尉の指揮する三空の零戦三四機は、一三四〇マニラ上空に進入した。空中に米戦闘機を認めなかった同隊は、直ちに基地銃撃に転じた。一三四五米戦闘機約四〇機が来襲し、日米両戦闘機隊は激烈な空中戦を展開した。開戦以来最大規模の対戦闘機戦闘である。零戦は強かった。この空中戦で横山隊は三十数機の米軍機を撃墜した。引き続きニコルス、ニールソン、キャンプ・マーフィー(マニラ近郊)等の飛行場を銃撃して、三十機以上を炎上大破させた。横山隊も零戦二機を失い、被弾機は十六機の多数に及んでいる。帰途天候が悪化し、横山大尉機他三機が不時着水し、搭乗員はいずれも救助された。
 長距離進攻作戦でしかも悪天候下、被害がこの程度で済んだのは、当時の搭乗員の技量が優れていたからである。
 航空部隊司令部は、この日の総合戦果を撃墜破約一〇〇機と判断し、残存米軍機の大部分を壊滅させ得たものと判断した。わが損害は直接戦闘により零戦三機を失い、その他に前述の不時着によるものがある。
 米側の記録によれば、B17一機、P40一〇機以上、P26三機を失い、それ以上の零戦を撃墜したと報告されている。
 十二月十二日に第三撃が実施されたが、天候の障害を受けてマニラ方面基地の攻撃は徹底を欠いた。一三日は、マニラ周辺基地に対する全力攻撃を実施したが、反撃する敵機は極めて少なかった。
 十二月十三日までに米軍に与えた損害(撃墜及び地上銃撃破)は三〇〇機を越えたものとみられた。この数字は、航空部隊司令部が開戦前に推測した在比米航空部隊の勢力を上回るものであり、米航空部隊はすでに壊滅的打撃を受けたものと判断された。十三日の攻撃後、陸偵隊がマニラ周辺飛行場をくまなく偵察した結果、米軍残存機は約二〇機に過ぎないことを確認している。
 この間、比島航空撃滅戦に参加したのは陸攻延四一二機、零戦二四九機である。わが損害は、直接戦闘によるもの陸攻一、零戦一二、直接戦闘以外の事故、不時着等は陸攻七、零戦五、計陸攻八、零戦一七、合計二五機である。しかも不時着機の乗員のほとんどが救助されている。
 塚原中将は、十二月一三日の攻撃をもって、比島航空部隊の大部を撃滅したものと判断し、航空部隊全力によるマニラ周辺基地の攻撃を取り止めることにした。
 わが航空部隊の攻撃は十二月十四日以後も続けられたが、米航空部隊は本格的に抵抗する能力を既に失っていた。
3、ウェーク島攻略
 太平洋戦争緒戦の作戦は極めて順調に推移した。その中で唯一の例外は米国の戦略上重要な存在であるウェーク島攻略である。また、零戦が初めてグラマンF4Fワイルドキャットと戦闘したのもウェーク島においてであった。
 日本に近い米領ウェーク島は、日本の南東方面へ延びる作戦上の重要な一拠点であった。
 ウェーク島には、昭和十六年八月に長さ一、五〇〇メートル幅六〇メートルの滑走路が完成している。
 十二月四日、F4F-3型(最初の量産機)一二機が、空母「エンタープライズ」から発艦、ウェーク島に着陸した。パイロット一二名のうち、飛行隊長他一、二名だけがベテランで、大部分が新人パイロットである。

 
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F4Fワイルドキャット
 十二月八、九、十日の三日間、二四航戦千歳空の陸攻隊がウェーク島に対して爆撃を行った。八日の空襲でF4F一二機のうち八機が地上で破壊された。十日、陸攻隊は爆撃後F4Fと約三〇分空戦し、陸攻一機が撃墜されている。
 十二月十一日未明、わが攻略部隊(六水戦<軽巡一、駆逐艦六>、潜水艦三、哨戒艇二、輸送船二、陸戦隊五六〇名及び掩護隊の一八戦隊<軽巡二>)は上陸作戦を開始した。
 同島砲台の反撃は効果的で、駆逐艦一隻はたちまち撃沈され、旗艦「夕張」と駆逐艦二隻が傷ついた。
 砲台の反撃開始と同時にF4F四機が離陸し、わが艦隊に襲いかかった。百ポンド爆弾ニコずつ装備したわずか四機のF4Fはわが艦隊を翻弄し、執拗な銃爆撃を加え、軽巡二隻に損傷を与え、搭載の爆雷、魚雷を誘爆させ、駆逐艦一隻を轟沈した。
 攻略部隊は上陸を断念し、クエゼリン環礁に後退した。まさに完敗である。
 F4Fも対空砲火による被弾で二機を失い、残存機二機となってしまった。
 当時、ハワイ空襲からの帰途にあった機動部隊は、ウェーク攻略支援が命ぜられ、山口多聞少将の二航戦(「蒼龍、飛龍」基幹)と八戦隊が急派された。
 山口部隊が到着するまで、わが陸攻隊の爆撃は続けられたが、残存の敵戦闘機F4F二機が活躍した。十一日空襲した陸攻隊の二機が撃墜されている。
 十四日の陸攻隊の空襲で、離陸するタイミングを逸したF4F二機のうち一機が爆撃によって破壊された。しかし、破壊機の部品をかき集めて修理し、十七日午後にはF4F二機が可動となっている。
 陸攻隊は十六日、十九日、二十一日に空襲し、この他に横浜空の飛行艇も四回空襲している。この休みない爆撃は米守備隊員の神経をじわじわとすり減らしていった。
 十二月二十一日早朝、山口少将の二航戦は、零戦一八機、九九艦爆二十七機、九七艦攻二機がウェーク島を初空襲したが、F4Fの反撃はなかった。
 翌二十二日朝、九七艦攻三三機と零戦六機で空襲した。零戦隊は敵戦闘機を見なかったので地上銃撃に入った。ところが、F4F二機が艦攻隊を奇襲して二機を撃墜し、その直後、F4F一機は後方から零戦の銃撃をを受けて不時着大破、搭乗員は絶命した。もう一機のF4Fもあっけなく零戦に撃墜され、ウェーク島のF4F部隊は壊滅した。
 少数のF4Fで駆逐艦一隻を撃沈し、陸攻隊を次々と撃墜、撃破し、最後には九七艦攻を撃墜して勇戦敢闘したF4Fも、性能の優れた零戦には簡単に撃墜された。搭乗員の練度の差も大きかった。わが方は他に艦攻一機が被弾不時着水したが、搭乗員は救出されている。
 二十三日、上陸当日も、二航戦の零戦、艦攻、艦爆が午前中五波にわたり攻撃し、戦果を拡大している。
 二十三日〇〇三〇過ぎ、舞鶴特二陸戦隊約九〇〇名が上陸開始、米軍降伏まで約九時間、激しい攻防戦が続いた。当日の上陸戦だけでも戦死者一〇〇名、戦傷者一七七名を出した。第一次上陸戦と合わせ、わが方の戦死者四六九名、これに対して米軍戦死者一二二名、大きな代償を払った勝利である。
 一方、キンメル米太平洋艦隊司令長官は、空母「サラトガ」を中心とする第一四機動部隊でウェークを救援する積極策をとった。しかし、十二月十七日キンメル大将が解任されて、その交代者が着任するまでの代理長官ウイリアム・パイ中将が、二十三日朝(ウェーク島時間)、ウェーク島の北東四二五カイリの海域まで近づいていた第一四機動部隊に引返しを命じた。このパイ中将の判断は、後にきびしい批判を受けることになる。
 このウェーク島の攻防戦は、重要な戦訓を残している。
 少数の戦闘機が活躍し、わが攻略部隊の最初の進攻を失敗に終わらせた。制空権を獲得しなければ島嶼攻略作戦は成功しないことを示している。
 ここで捕獲されたブルトーザー等の施設機械の威力に驚嘆したわが攻略部隊は、機械を内地に送ったが、わが国では戦争修了まで間に合わなかった。これらの貴重な戦訓は、緒戦の大勝利の爆発的興奮の影に埋没されたのであろう。
4、スラバヤ方面航空撃滅戦
 南方要域攻略作戦の終局の目的は蘭印の攻略であった。比島とマレー半島の攻略は順調に進んだ。これらは蘭印攻略の拠点としての意義が大きかった。連合国の兵力増援、特にその航空兵力が強化されないうちに、多少無理をしても蘭印を攻略し、速やかに石油資源を獲得する計画であった。
 そのために、マレー攻略に続いてスマトラ南部に航空基地を推進するとともに、ボルネオ、セレベスに基地を設けて、二月下旬までに北、東、西の三正面からジャワ全島の制空権をとって、東西同時に上陸し、三月頃までにジャワ全島を攻略しようというものである。
 比島作戦に引続き、さらに南方の敵を求めて活躍した南方部隊航空部隊指揮官塚原中将(十一航艦長官)は、十七年二月二日までに、陸攻隊主力をケンダリーに、台南空、三空の戦闘機隊の各三分の二の兵力をボルネオ中部東海岸のバリクパパンに集結させた。
 一月末の航空部隊のうち、戦闘機部隊の兵力配備は次のとおりである。

二一航戦司令部          ケンダリー
三空       零戦四一機    ケンダリー
二航戦派遣隊 零戦一八機    ケンダリー
二三航戦司令部          バリクパパン
台南空     零戦三〇機     バリクパパン

 スラバヤ周辺の三飛行場の周辺にはP40、P36等約百機近い戦闘機が温存されていた。
 十七日二月三日、零戦と陸攻の戦爆連合の攻撃によって航空撃滅戦が開始された。なお、本作戦の戦爆協同要領は、集合は行わず時刻を定めて突入するように打合せが行われていた。
 高雄空一式陸攻二六機は一二二〇スラバヤ飛行場、鹿屋空一式陸攻二七機は一二二五マジュン飛行場(スラバヤの西約八〇カイリ)、一空九六式陸攻一九機は一二一〇マラン飛行場を空襲、全機帰還している。
 三空零戦二七機、陸偵二機は横山大尉指揮のもと、スラバヤに突入、撃墜カーチスライト戦闘機一五、P36戦闘機三(うち不確実一)、P40戦闘機四(うち不確実一)、飛行艇四、バッファロー戦闘機九、ホーカーハリケーン戦闘機四計三九機、地上撃破B17一大破、飛行艇四大破、同一四炎上の戦果を報じた。わが方は未帰還零戦三機、陸偵一機、被弾零戦三機を出した。
 台南空零戦一七機、陸偵一機は浅井正雄大尉指揮のもとに、一二三〇マジュンに突入、撃墜二、地上撃破四の戦果を報じ、全機帰還している。
 台南空零戦一四機、陸偵一機は新郷大尉指揮のもとに、マランに突入、銃撃及び空戦によりB17一、双発飛行艇一、四発機五、双発機一、小型機一を撃破又は炎上と報じ、零戦一機自爆、七機被弾した。
 この攻撃において敵はわが戦闘機がどこから来襲したのか分からず、南方から母艦で来襲したのではないか等と判断したほど、奇襲に成功している。
 塚原中将は同日の戦果を確実(撃墜大破及び撃墜不確実)二三~二四機総計八五機と報告した。わが方の損害は自爆零戦一、未帰還零戦三、陸偵一合計五機である。
 二月五日、在バリクパパン航空部隊は第二次航空撃滅戦を実施した。
 台南空零戦二七機(新郷大尉)、陸偵一機は一一一五スラバヤに突入した。空戦及び銃撃を行い、戦闘機四、飛行艇一撃墜、飛行艇一炎上、水偵一撃破、四発大型機二に黒煙を吐かせるという戦果を報じて全機帰還した(被弾機四)。
 三空零戦一一機(山口定夫中尉)、陸偵一機は一一四五スラバヤに突入、飛行艇一、P36二、飛行艇二炎上を報じて全機帰還している。
 高雄空陸攻一八機はスラバヤ飛行場を攻撃、全機帰還した。
 三空零戦一〇(蓮尾隆市大尉)、陸偵一機は一一二五デンパッサル(バリ島)上空に突入、空戦により、P14一一機撃墜(うち不確実二)を報じ、被弾機一機だけで全機帰還している。
 その後、零戦隊はスラバヤ周辺基地攻撃、船団上空直掩、バリ島泊地上空哨戒等で活躍を続けた。二月十九日は台南空の零戦二三機がスラバヤを空襲し、P40三〇機と空戦し、そのうち一七機撃墜を報じている。
 こうして、一七年三月初めには蘭印方面における制空権を獲得し、ジャワ東方および西方攻略部隊の上陸後の戦況は迅速に推移し、三月九日蘭印の連合軍は無条件降伏した。
 この間、わが海軍の基地航空部隊(南方航空作戦)による開戦からジャワ作戦終了までの総合戦果は、軍令部発行の「大東亜戦争教訓(航空)」によれば、
    撃墜撃破確実なもの  五六五機
    うち零戦によるもの   四七一機(八三%)
となっている。
 太平洋戦争緒戦における圧倒的勝利は、零戦の活躍に負うところが大きい。当時としては世界に誇る高性能の零戦に、闘志旺盛な練達の搭乗員が配されていたからである。
 なお、緒戦期における比島、マレー、及び蘭印方面の被害を見ても、その被害は下表のとおりで少ない。開戦前九月の海軍大学校図演において、ジャワ進出までに南方作戦で零戦一六〇%、陸攻四〇%の損耗(人員の補充、機材の補給が必要)が予想されていたが、その心配は杞憂に終わった。
比島航空戦における被害(自十二月八日 至一月三日)
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比島航空戦における被害(自十二月八日 至一月三日)
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5、印度洋作戦
 機動部隊は、ハワイ作戦後ウェーク島攻略及びラバウル攻略作戦(十七年一月下旬)に協力した後、主力はトラック泊地に待機していた。
 大本営は十七年一月二十二日、ビルマ要域の攻略を発令した。当時、連合艦隊は、次期作戦としてセイロン島を攻略することにより、英艦隊を誘出して捕捉撃滅し、西方を安全にしておいて、東方の米軍に対し積極作戦を行う案を持っていた。また、大本営海軍部(軍令部のメンバーがそのまま海軍部のメンバーとなっている)も印度洋の英艦隊(戦艦三、空母二、近き将来増派予想戦艦二、空母二)撃滅に強い関心を抱いていた。
 印度洋作戦に先立って、ジャワ島に対する敵の増援を阻止し、ジャワ島攻略作戦を容易にするために、機動部隊はポートダーウィン所在航空兵力を撃滅することになった。

 ポートダーウィン奇襲 二月十五日、一航戦、二航戦を基幹とする機動部隊はパラオを出港して、十九日未明ポートダーウィンの北北西約二二〇カイリに達し、攻撃隊を発進させた。
 攻撃隊は、総指揮官赤城飛行隊長淵田中佐直率の艦攻八一(爆装)、蒼龍飛行隊長江草隆繁少佐指揮の艦爆七一、赤城飛行隊長板谷少佐指揮の零戦三六合計一八八機の大編隊から成っていた。
 制空隊の零戦隊はポートダーウィン上空に先行したが、反撃して来る敵戦闘機は少なく、たちまち撃墜した。対空砲火は相当激しかったが、拙劣であった。この空襲により、戦闘機九機、飛行艇一機を撃墜し、在地機のすべて十数機を撃破し、在伯中の駆逐艦以下の艦船八隻を撃沈、残りの艦船十数隻に損傷を与え、航空基地施設、港湾施設に壊滅的損害を与えた。わが方は零戦一機、艦爆一機が自爆、艦爆一機が不時着水(搭乗員は救出)している。しかし、大編隊の攻撃隊の目標としては、港湾施設も航空基地も貧弱、飛行機の数も少なかった。

 コロンボ空襲 連合艦隊は本作戦のため、内地にあった五航戦を機動部隊に復帰させている。しかし、「加賀」は先にパラオにおいて暗礁に触れ、艦底に軽い損傷を受けたので、修理のため三月十五日スターリング湾を発して佐世保に向かっていた。結局、この作戦に参加する空母は「赤城、飛龍、蒼龍、瑞鶴、翔鶴」の五隻となった。
 コロンボ攻撃の前日四月四日夕刻、機動部隊は敵飛行艇に発見され、待機中の零戦(各艦三機、「飛龍」のみ六機計一八機)を発進、これを強制着陸させ、乗員を捕虜としている。敵飛行艇がわが態勢を打電したことは、傍受により確実となったが、指揮官は予定どおりコロンボ攻撃を決行することした。しかし、兵力の半分、一、二航戦の艦爆隊及び五航戦の艦攻隊を不時の会敵に備えて控地することになった。
 四月五日朝、またもや敵飛行艇に接触されたが、上空直衛中の「飛龍」の零戦がこれを撃墜している。
 空母群はセイロン島南方一二〇カイリに在った。
 日出三一分前、〇九〇〇(現地時間午前六時)総指揮官赤城飛行隊長淵田中佐指揮の九七艦攻五四機、翔鶴飛行隊長高橋赫一少佐指揮の九九艦爆三八機、赤城飛行隊長板谷少佐指揮の零戦三六機が発進した。同時に水偵七機が発進、機動部隊西方海面の索敵に向かった。
 コロンボ上空に進入した攻撃隊は、一〇四五全軍突入、強襲によって大戦果を収めた。
 敵は戦闘機数十機を上空に配して待ち構えていたので、たちまちわが零戦隊との間に激烈な空中戦が展開された。わが零戦隊は戦闘三〇分にして、スピットファイアー一九、ハリケーン二一、スォードフィッシュ(魚雷携行中)一〇、デファイアント一計五一機の撃墜(うち未確認九)を報じた。わが方の被害は一機であった。英側資料によれば、ハリケーンニコ中隊及び海軍のファルマー戦闘機ニコ中隊計四二機で邀撃し、一九機を失ったほか、海軍雷撃機スォードフィッシュ全機(六)が撃墜されている。
 スピットファイアーは、この時にはまだ極東に投入されておらず、わが搭乗員はハリケーンや海軍のファルマーを見誤ったものと思われる。
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ハリケーン
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ファルマー
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スォードフィッシュ
 攻撃隊は、この間に港内の艦船、港湾施設を爆撃、大戦果を挙げた。艦爆隊はハリケーン六機を撃墜したが、六機が自爆している。
 一二二八、淵田中佐は「第二次攻撃を準備されたし。港内に輸送船二〇あり・・・・・」と連絡した。この報により、南雲中将は、一一五二艦上待機の五航戦艦攻隊へ爆装に転換を下令した。
 一方、索敵機「利根」九四式水偵は、一三〇〇機動部隊の西一五〇カイリを南下中の巡洋艦らしきもの二隻の発見を報じた。南雲中将は、一三二三再び艦攻に雷装に戻すように命じたが、作業ははかどらなかった。
 一三五〇「阿武隈」の水偵は駆逐艦二隻を発見したが、捜しても巡洋艦を発見することはできなかった。先の報告の巡洋艦は駆逐艦の誤りと判断した南雲中将は、一四二七艦爆隊に発進を命じた。赤城艦爆一七、飛龍艦爆一八、蒼龍艦爆一八計五三機が、一四四九から一五〇三の間に発進した。
 接触に向かった「利根」零式水偵は、一四四五敵巡洋艦二隻発見の報を打電し、一五五四敵巡洋艦を再確認し、「ケント」であると報告してきた。
 一五五四に「敵見ゆ」と発電した艦爆隊指揮官江草少佐の指揮と誘導は見事であった。艦爆隊は、太陽側から巧妙に接敵奇襲し、一六三八から一六五五の間に二隻の英重巡を急降下爆撃して、一六五八に撃沈した。この時の命中率は八八%という驚異的なものである。これらの重巡は英国の一万トン級「ドーセットシャー」と「コンウォール」である。
 五航戦艦攻隊は、一一五二雷装から爆装へ、また一三二三再び雷装への転換を命ぜられ、一六二五、五航戦司令官は「攻撃隊は一七〇〇発艦・・・・・」と発令している。発艦二分前に「発艦暫く待て」と下令され、雷撃隊は発進取止めとなった。
 この艦攻隊の兵装転換については問題を残したが、重巡攻撃成功の影に隠れて、大きな問題として当時は取り上げられなかったようである。しかし、これと同じような状況が二ヶ月後のミッドウェー海戦に再現されることになる。
 この戦訓から、「飛龍」で実験した結果、九七艦攻一八機の雷装転換所要時間は次のとおりであった。

1、爆弾を格納庫に出し、搭載準備完了の状態
   雷装から二五番二発          二時間三〇分
   雷装から八〇番通常          一時間三〇分
   雷装から八〇番徹甲          二時間三〇分
2、魚雷を格納庫に出し、搭載準備完了の状態
   二五番二発から雷装          二時間
   八〇番通常から雷装          二時間
   八〇番徹甲から雷装          一時間三〇分
(注)二五番は二五〇キロ爆弾、八〇番は八〇〇キロ爆弾をいう

 ツリンコマリ空襲 四月五日夕刻、機動部隊は、江草艦爆隊を収容した後、対空警戒機を上空に配しつつ南下した。
 四月六日早朝から広範囲の索敵を実施したが、敵艦を発見できなかった。
 そこで、南雲中将は敵空母との決戦を断念し、セイロン島の四五〇カイリ圏外を迂回して、九日早朝セイロン島の東側にある軍港ツリンコマリを攻撃することに決意した。
 今回は艦爆隊全機を敵艦船に備えた。九日〇九〇〇、淵田中佐を総指揮官としたツリンコマリ攻撃隊が発進した。敵艦隊に対する索敵機も同時に発進した。
 攻撃隊の兵力は九七艦攻九一機、零戦四一機で、一〇二〇全軍突入した。この日の戦果も甚大であった。
 制空の零戦隊は、軍港上空で待ち受けていたハリケーンを主とする数十機の戦闘機を相手に、縦横無尽に一方的な空戦を実施し、四一機を撃墜し、地上で四機を銃撃炎上させた。英側資料によれば、邀撃した英戦闘機は二二機である。
 艦攻隊は航空基地と海軍工廠の陸上施設に爆撃を集中し、機能を喪失させた。港内在泊中の軽巡一隻、商船三隻を撃沈した。
 わが方は零戦三機、艦攻一機を失っている。
 ツリンコマリの攻撃終了直後一〇五五、わが水偵は出発点からの方位二五〇度一五五カイリに敵空母「ハーメス」、駆逐艦三隻発見を報じた。一一四三、艦爆八五機、零戦六機は翔鶴飛行隊長高橋少佐指揮のもとに発進した。零戦の数は余りにも過少である。
 攻撃隊は一三五五「ハーメス」を撃沈した。引続き付近にあった駆逐艦一、哨戒艇一、商船二隻を撃沈して帰投中、さらに一四三五~一四四七ブレンハイム四機(「赤城、利根」を爆撃した重爆)を発見し二機撃墜を報じた。
 陸上基地から発進した敵戦闘機九機が、最後に戦場を引揚げようとした蒼龍艦爆隊九機に襲いかかり、両者の間に壮烈な空戦が演ぜられた。一五一五から一五四〇にわたる死闘で、艦爆隊は敵戦闘機七機(うち不確実二)を撃墜したが、真珠湾攻撃以来の精鋭四機を失った。零戦一機もこの時自爆している。十分な数の戦闘機を付けていたら、この尊い犠牲を出さずに済んでいたであろう。総じて日本海軍の空母の機種搭載比率は、艦攻三、艦爆三、艦戦二というのが標準であった。攻撃重視の思想から定められたものである。それにしても、この時の戦闘機数は余りにも少なかった。
 「ハーメス」をわが艦爆隊が攻撃している頃、「赤城」と「利根」は敵重爆ブレンハイム九機の奇襲を受けた。幸に被害こそなかったが、わが方は爆撃による水柱があがるまでこれに気付かず、「赤城」においては一弾も発砲し得ない有様であった。上空直衛戦闘機がこれを追撃し、五機撃墜(英側資料も同数)を報じた。この戦闘で飛龍分隊長熊野澄夫大尉を失った。
 この敵機による奇襲は機動部隊にとっては重大問題であった。見張り、咄嗟砲戦についての対策(見張用電探又は聴音機の装備要求等)を述べた戦訓が出されている。この戦訓も、次の大作戦ミッドウェーでは生かされない。勝ちいくさでの戦訓は無視され易い。
 機動部隊は、この作戦を終えて意気揚々と内地に向かった。結局わが軍は印度洋における大規模な攻略作戦を実施することにはならなかった。
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