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・零戦について

※背景は空母瑞鳳艦上の零戦

零式艦上戦闘機(A6M)

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・零式艦上戦闘機21型

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・零式艦上戦闘機52型

(一)開発

 支那事変の始まる少し前の昭和十二年五月、海軍は九六戦の後継機として、一二試艦戦の計画要求書案を、三菱、中島両社に示した。日進月歩の航空界では、いかなる優秀機もすぐ時代遅れになる。常に敵に優位にあるためには、さらに次の飛行機の開発に取りかからねばならないのは、軍用機の宿命である。  計画要求書案を両社が検討中に、支那事変が起こったため、さらに戦訓に基づく要望が追加されて、当時の水準では、まことに過酷な計画要求になった。その要求書は次のとおりであった。
一二試艦上戦闘機計画要求書(抜粋)

一、目的
攻撃機の阻止撃攘を主とし、なお観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり。(そして昭和十三年一月の官民合同研究会の時に、「敵戦闘機との空戦において、優越せる艦上戦闘機なるを要す」と補足指示された。)
二、最高速力
高度四、○○○メートルにて二七○ノット以上。
三、上昇力
三、○○○メートルまで三分二○秒以内。
四、航続力
正規状態三、○○○メートル公称馬力で一・二時間乃至一・五時間 過荷重状態で、巡航六時間以上。
五、離陸滑走距離
風速毎秒一二メートルの時七○メートル以下。
六、着陸速度
五八ノット以下
七、空戦性能
九六式二号艦戦一型に劣らぬこと。
八、機銃
九九式二○ミリ固定機銃 二丁 九七式七.七ミリ固定機銃 二丁
九、爆弾
六○キロまたは三○キロ爆弾 二個
一○、無線機
九六式空一号無線電話機 一組 ク式三号無線帰投方位測定機 一組
 上記性能は九六戦に比べて、飛躍的な高性能を要求するもので、速力、上昇力、兵装など世界各国の戦闘機を見ても、最高の水準であり、航続力と空戦性能は、世界の水準を遙かに上回るものであった。
 航続力が大きいため、戦闘機では世界で初めて無線帰投装置を装備して帰着の安全を図った。また二○ミリ機銃は命中率が良くないとされ、外国では実験的に装備した例があるだけであったのを採用に踏み切った。
 この過酷な要求性能に対し、会社側は要求の緩和を求めたが、認められず、中島は試作を辞退した。
 翌十三年四月、計画説明審議会の席上、三菱の設計担当堀越二郎技師は航続力、速力、空戦性能の三者の重要順序の指示を求めたが、結論を得るに至らず、会社側は最大の努力を強いられるだけであった。
 一二試艦戦はその要求性能からして、九六戦に比べて相当の大型になることが予想された。その飛行機で九六式二号艦戦並みの空戦性能を保持するには、破格な空力設計と、徹底した自重量の軽減を図らなければならなかった。
 その第一段は、主翼の前後二本の翼桁を左右貫通式として、その材料に世界で初めてのESD(超々ジュラルミン)を使用することにした。当時ESDは住友金属製作所で試作の段階で、時期割れ(一種の金属疲労)を生ずる欠点があったが、解決の見込みが立ったことから、航本は勇断をもってその使用を許可した。
 第二段は、機体各部の贅肉を、強度上許す限り減らして、徹底的に重量管理をすることであった。
 機体外形は九六戦で得た資料をさらに徹底して、流線化を図り、脚は完全引き込み式とした。二○ミリ機銃の命中率を良くするため、安定性を求めて胴体は幾分長めとし、視界を良くするため風防を少し突出させた。
 空戦性能が翼面荷重の大、小で左右されることは、今後別項目にて解説予定であるが、これを一○五キロ以内に納める事とした。また、大仰角時の翼端失速防止、及び操縦性の向上のためには、主翼仰角の捩じり下げ、翼の厚さ、上反角などがあるが、これらは九六戦の経験を生かした。
 発動機は、当時三菱に瑞星と金星があった。高馬力の金星は直径が大きく、視界、重量の面で不利となるので、やむなく低馬力の瑞星を装備することにした。
 堀越技師は試作中の二速過給器付の瑞星を装備したい意向であったが、この発動機は耐久運転で信頼性がなかったので、試作機には二速過給器なしの瑞星一三型(三、六○○メートルで八七五馬力)を装備することになった。たまたま中島の栄一二型(四、二○○メートルで九五○馬力)もいずれは二速過給器をつける予定であり、瑞星よりも成功の可能性がある見通しが強かったので、機体は試作三号機以降これに搭載替えを指示した。
 プロペラは最初、住友ハミルトンの二段可変ピッチプロペラを使う予定であったが、本機設計中に同社の恒速プロペラが開発されたので、この二翼式に変更した。日本で恒速プロペラを装備した最初である。
 このような計画で試作が進められている最中に、第一線部隊から二○ミリ機銃不要論が出たが、計画を変更する動きはなかった。防御装備の構想は念頭になかった。
 計画要求に防御の項目があったならば、後世に名を残した名機零戦は、おそらく誕生しなかったであろう。
 試作一号機は、三菱が計画説明書を提出してから、わずか十一カ月で完成した。
 社内飛行中、多少の振動があったため、二翼プロペラを三翼に替えて解決した。
 一号機の社内飛行試験は順調に進み、最高速力は推定計算値を上回る二六四ノットを記録した。この数値は、発動機が馬力の大きい栄型に換われば、要求を十分に満足するものであった。
 昇降舵は高速時、効きが良過ぎ、着陸時に効き不足のため、昇降舵操縦装置の剛性を低下したところ、大いに効果があった。
 補助翼の効きが稍鈍いとともに、大仰角時自転を起こす傾向があった。これは空戦運動の障害になるため、空技廠飛行実験部は改良するよう強く要望した。その結果大分良くはなったが、同部は旋回性能を重視する艦上戦闘機としては、まだ完全ではないと判断した。
 一号機は昭和一四年九月領収され、飛行実験部の実験が始まり、続いて横空での実験に移された。戦闘機に初めて装備された主翼内の二○ミリ機銃については、用兵側も大いに注目したが、機銃の試射は好成績であり、横空で実施した厳しい空戦運動実験でも、実験部で危惧した不満はなかった。
 実用機となった第七号機以降のこの型の零戦では、実施部隊に配属されてからも、操縦性についての苦情は出なかった。とくに着陸視界の良いことは、母艦機として最も困難な夜間着陸や、未熟者の着陸が容易で、事故発生を未然に防止した。
 しかし後年、米軍が零戦を捕獲して実験した結果、高速時の補助翼の効き不足で、横転操作に難があることを指摘している。
 発動機は瑞星、栄とも大きな故障はなかった。
 第一線部隊では、本機の配属を熱望したので、海軍は制式採用を待たず、量産機一五機を第一線に配備した。そして七月二十四日零式艦上戦闘機一一型として兵器採用になった。
 第一線に配備されてから、シリンダー温度過昇、脚の収納不充分、二○ミリ機銃の機能不良等起こったが、何れも小改造で改善されるとともに、取扱いに慣れるに従い故障はなくなり、信頼性を高めた。
 本機の試作にあたり、当初は実現不可能とさえ思われた厳しい要求を完全に満たし、性能のどれを見ても、当時の一流戦闘機に優り、調和のとれた世界最高の戦闘機になった。これは堀越技師以下関係者の協力の賜である。また栄発動機の燃料消費量の少ないことは、本機の真価をさらに高めるものであった。
 昭和十六年一月、零戦は陸軍のキ-四三(後の「隼」)、キ-四四(後の「鍾馗」)、ハインケルHe-100との間で空戦試合を行ったが、どの飛行機より優れている事を立証した

(二)尊い犠牲

 昭和十五年三月十一日、漢口、南昌の空戦で勇戦した飛行実験部の奥山益美操縦士は、試作二号機に搭乗して、急降下時の恒速プロペラの過回転状況を調査中、空中分解により殉職した。
 操縦者が即死したのと、機体が原形をとどめぬ程破壊したので、事故の原因探求は困難と思われた。しかし昇降舵マスバランス腕の切損を発見した空技廠は、風洞実験を実施した結果、マスバランスの分離が昇降舵のフラッターを起こしたことを突き止め、そのために空中分解するに至ったとして対策を施し、再び同様の事故はなかった。
 本機が制式機に採用され、実施部隊で訓練に使われていた十六年四月十六日、空母加賀の二階堂易中尉が、急激な垂直旋回中、主翼の外鈑に大きなしわが発生し、さらに急降下したところ、外鈑の一部が補助翼とともに飛散した事故が起こった。同中尉は沈着冷静に操縦して、飛行機を着陸させた。
 この知らせを聞いた横空の下川万兵衛大尉は、自分が実用実験した零戦の事故を解明するには、まず自分が飛んで見ることであるとし、たまたま事故機と製造番号が近い一三五号機があったので、それで実験して見る決心をした。その急降下で飛行中に、飛行機は空中分解して、同大尉は飛行機から脱出することもなく、殉職した。  当時零戦は中国で、赫々たる戦果を挙げて、信頼性も十分であったのと、一方国際情勢は緊迫して、零戦は日本海軍主力戦闘機として各部隊に配備され、猛訓練中の出来事であったため、関係各部は大きな衝撃を受けた。
 これに対し、早速空技廠の松平精技師が中心となって、懸命な研究実験の結果、零戦は計器指示速力約三百数十ノットで、補助翼回転-主翼捩れフラッターを起こす可能性があることを発見した。そこで翼外鈑の厚さを増し、補助翼マスバランス量を追加することで解決し、なおこの型の急降下制限速度を、計器指示三四○ノットに抑えた。
 航空機フラッターの理論研究は、それまで各国とも極めて幼稚であったが、この理論を確立した同技師の功績は大きかった。戦後わが国の航空技術の調査をした米軍からも、感嘆された程優秀な研究であった。

(三)改造と生産

いったん完成した飛行機でも、性能向上のため、又は用兵側の要求から、たびたび改造が行われたのは、わが海軍飛行機の常であった。
●一一型
 いったん完成した飛行機でも、性能向上のため、又は用兵側の要求から、たびたび改造が行われたのは、わが海軍飛行機の常であった。
●二一型
 生産機数・七四○機(十五年生産開始) 翼幅が母艦のリフト一杯なので、翼端を○.五メートルずつ折り畳み、横方向の操縦性を良くするため、補助翼にバランスタブをつけた。 太平洋戦争中緒戦に活躍したのはこの型である。
●三二型
 生産機数・三四三機(十六年七月から生産) 最初予定した、栄の二速過給器付き発動機(高度二、八五○メートル一、一○○馬力、六、○○○メートル九八○馬力)を装備し、翼幅を一一メートルとし、補助翼バランスタブを廃止した。速力は向上し、主翼面積減少のため横方向の操縦性は改善された。しかし発動機の重量が増加したので、重心点調整のため胴体燃料槽の容量を若干減らしたので、ラバウルを基地とする長距離作戦上、航続力不足の不満が出た。
●二二型
 生産機数・五六○機(一七年秋から生産) 燃料槽を増設、これによる翼面荷重の増大を懸念して、主翼の型を二一型に戻し、二○ミリ機銃を二号銃三型とした。
●五二型
 生産機数・七四七機(十八年夏頃から生産) 速力と急降下加速性の向上のため、主翼を再び三二型とし、ロケット排気管を採用した。その結果、速力は三○○ノットを超し、横方向の操縦性は良くなったと、一部の搭乗員からは歓迎された。なお、この型の生産途中から翼の燃料槽に自動消火装置を取り付けた。
●五二型甲
 生産機数・三九一機(一九年三月から生産) 二○ミリ機銃をベルト給弾(各一二五発)とし、翼外鈑を○・二ミリ厚くして、急降下制限速度は四○○ノットになった。
●五二型乙
 生産機数・四七○機(一九年四月から生産) 右側の七・七ミリ機銃を一三ミリ機銃(二三○発)に換装、一部の飛行機は風防前面に防弾ガラスを装備し、胴体燃料槽に自動消火装置を取り付けた。
●五二型丙
 生産機数・九三機(一九年九月から生産) 戦訓により防弾及び火力増強を行えば、グラマンF6Fにも対抗し得るとして、操縦者後方に防御鋼鈑を取り付け、胴体前方燃料槽を廃止して、操縦席後方にゴム内張式防弾燃料槽設置、主翼内に一三ミリ機銃各一丁宛を装備した。なお、小型ロケット爆弾を携行できるようにした。しかしこれ等の改造は重量の増加を伴うため、性能低下は免れなかった。
●六三型
 生産機数不明(二○年五月から生産) 二五○キロ爆弾搭載可能のもの、終戦まで生産。
●五四型丙
 度重なる改造と、発動機の性能低下のため、飛行機の性能が低下したので、それを回復するため、金星六二型(高度二、○○○メートル一、三五○馬力、五、○○○メートル一、二五○馬力)に換装し、速力も三○九ノットを示したが、大量生産に入ることなく終戦となった。
 戦争の末期には、月光同様斜上方向けの、斜銃装備のものも造られたが、実績は不明である。
 零戦は三菱一社の生産能力では、所用数の供給に間に合わないため、昭和十六年十二月から中島でも生産することになった。「三菱飛行機歴史」によれば、三菱で生産されたもの三、八七三機で、総生産数は三菱、中島、其の他合計一○、四二三機と推定している。
 複座に改造された練習用戦闘機は、二一空廠と日立航空機で、五一五機生産されたとの記述がある。

(四)活 躍

 昭和十五年九月以降、中支、南支で敵戦闘機(E-15、E-16)を一蹴した零戦も、太平洋戦争開始までは、秘密のベールに隠されたまま、ハワイとフィリッピンに姿を現して、その真価を発揮した。米国にとっては、日本がこのような戦闘機を保有していることは、青天の霹靂であった。
 P-35、P-36、P-40等が相手であったが問題にならなかった。その後零戦は印度洋作戦に、ジャワ・豪州作戦に、あるいは数度の海戦に、思う存分の活躍をして、与えられた任務を完全に遂行した。米、英の攻撃機は勿論、戦闘機のどれに対しても圧倒的に優勢であった。
 しかし強力な防御力を誇るB-17は、少々持て余した。戦争後半出現した超大型爆撃機B-29は、零戦程度の性能では撃墜困難であった。
 昭和十七年八月、米軍はガダルカナル島に上陸し、反撃体勢に入った。この頃相手となったのはF4Fである。開戦以来無敵の戦闘を続けて来た零戦隊の士気は極めて旺盛で、われに倍する敵に対しても互角以上の勝負をした、彼我同数ならば圧倒的な勝利に終わった。
 しかし米軍も戦意旺盛な上、損耗兵力の補充が迅速で、次第に勢力を強めて来た。これに対し我が方は、兵力の補充が意のようにならない上、敵は我が方の得意とする格闘戦法を避け、一撃離脱戦法を主用し始めたため、苦戦を強いられ、掩護任務の場合にはその実を全うすることが次第に困難になった。
 同年秋頃からP-38が、翌年二月にはF4Uが、そして九月にはF6Fが戦線に姿を現した。その特色である高々度性能を利用した戦法と数量をもって、我が方に挑戦し来るようになって、零戦では太刀打ちが益々困難になった。
 零戦に代わるべき後継機「烈風」は、まだ机上プランの最中であり、「紫電」もやっと試作機が完成した頃なので、当分は零戦を改造して戦うより致し方がなかった。
 このようにして、支那事変以来、我が国の主力戦闘機として、高空撃滅戦に、攻撃隊掩護に赫々たる成果を挙げた零戦も、遂に米軍の質と量の前に屈服するの止むなきに至った。
 昭和十九年秋、特攻作戦が始まってからは、その尖兵として一、二○○機が特攻に散華して、支那事変以来五年間の零戦活躍に終止符が打たれた。特攻機には五○○キロ爆弾を携行したものもあった。
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